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朝彦親王伝 徳田武著

人格形成の過程を史料から分析

幕末に公武合体派公卿の代表だった朝彦親王は、一般には会津藩主松平容保(かたもり)と提携し、文久3年(1863)8月18日の政変、すなわち三条実美ら尊王攘夷派公卿を追放する宮廷クーデターを断行した宮様として知られる。その度胸のよさは皇族離れしているが、本書は幕末史料をよく読み込むことにより、その人格形成の過程から義弟にあたる孝明天皇の無二の相談相手になっていった理由までを深く分析した労作である。

(勉誠出版・4800円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)

文政7年(1824)、伏見宮邦家親王の第4子として生まれたものの、本能寺の小僧にされてしまった少年時代。一乗院主として興福寺の公事訴訟を扱うようになり、豆腐と一菜だけの食事に堪えながら公平な裁きで注目されるようになった青年時代。そして嘉永5年(1852)、29歳にして天台座主として天皇の最高顧問に就任した親王は、開国に踏み切った幕府=井伊直弼政権を違勅の罪を犯したと難詰しはじめるのだ。

なるほど、親王はこのころからリーダーシップを発揮しはじめていたのか。評者はそう思って感心してしまったが、当時の天皇は諸外国の開国要求を元寇(げんこう)以来の国難と捉えていた。この国難を乗り切るためには井伊大老に対抗することも辞さない、とする親王が天皇にとっては「欠かせない存在」になっていった、という著者の指摘には説得力がある。

井伊政権ににらまれた親王は「下半身事情」まで探られ、ついには蟄居(ちっきょ)に追いこまれる。それでも桜田門外の変の発生によって不死鳥のように蘇(よみがえ)り、文久2年暮れに京都守護職に就任した松平容保とともに公武合体路線を模索するに至るのだ。

著者は、その心理的要因を左のように分析する。「親王には自分を本能寺の小僧の境遇から引き揚げてくれた仁孝天皇への報恩を果たしたい、という願望があり、その為(ため)にはその御子にして義弟でもある孝明天皇を支えねばならない、という事になる」

それゆえにこそ親王は「策謀」も辞さなかった、とするのも興味深い指摘である。欲をいえば、明治維新とともに失脚させられ、広島へ流されて以降の後半生についてももう少し読みたかった。

(作家 中村彰彦)

[日本経済新聞朝刊2012年2月19日付]

朝彦親王伝 維新史を動かした皇魁

著者:徳田武.
出版:勉誠出版
価格:5,040円(税込み)

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