2019年1月24日(木)

共喰い 田中慎弥著 閉ざされた世界のふしぎな静寂

2012/2/20付
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「共喰(ぐ)い」というタイトルから何かおどろおどろしい印象を受けるかも知れない。

主人公は遠馬(とおま)という17歳の高校生。舞台は川辺と呼ばれる田舎町であり、時代は昭和の最後の夏となった昭和63年の7月である。壊れた自転車や錆(さ)びたブリキのバケツ、ビニール袋などが乱雑に捨てられた下水と海のにおいに満ちた川の岸辺で展開される物語は、たしかに常軌を逸したものがある。遠馬は父親の円(まどか)とその内縁の妻・琴子(ことこ)と暮らしているが、実母は橋の向こうで魚屋を営む60近い仁子(じんこ)という女である。彼女は戦争中に空襲で右手を失い義手をつけている。夏祭りで10歳年下の円と知り合い一緒になるが、交情のときに殴りつける癖があり、女癖もわるい夫に耐えきれず家を出る。

円は様々な物品を預かったり廃棄したりする仕事をしていたが、飲み屋に勤めていた35歳の琴子と同居し夜な夜な暴力的な性交をし、近くの奇妙な女とも交わったりしている。この父の獣的な血と性を受け継いだ遠馬は、1つ年上の千種という女子高校生との交情に夢中になっている。

暴力を孕(はら)んだ性の閉ざされた世界。子は父を嫌悪しながらも、その無頼の姿に自らを重ねようとし、父は子を異物のように眺めながらもいとしさの情感をあふれさせずにはいられない。そして父と子の相剋(そうこく)の激情は破局的な事態をもたらす。その一種地獄絵図めいた世界は、しかし常に流れゆく川の水音に包まれている。川底に堆積した人間の生活の崩れ錆びた物たちが水面に顔を出し、蟹(かに)や船虫などの夥(おびただ)しい生き物の住処(すみか)となり、風と水と泥がつくり出すその時空間はふしぎな安静と静寂をもたらす。それはいかに残酷であれ、逃げ場がなくとも、ここに生ける者たちの運命的な揺るぎのない場所である。そこは顔をそむけたくなる世界ではなく、むしろ遥(はる)かな郷愁すら感じさせるものがある。所収の「第三紀層の魚」は小学4年生の主人公と死にゆく曽祖父との交流のなかに、戦争と時代に翻弄されながら生きる者の力を描いているが、ここにも苛酷(かこく)で暴力的なものを、日常の深層において捉える作家独特のまなざしが漲(みなぎ)っている。

(文芸評論家 富岡幸一郎)

[日本経済新聞朝刊2012年2月19日付]

共喰い

著者:田中 慎弥.
出版:集英社
価格:1,050円(税込み)

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