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清沢洌 寛容なき社会 痛烈批判

戦争と言論人 足跡を訪ねて(3)

「この戦争において現れた最も大きな事実は、日本の教育の欠陥だ」

日本の敗色がいよいよ濃くなってきた1944年(昭和19年)3月16日、清沢洌は日記(「暗黒日記」)に日本を滅ぼすものは「信じ得ざるまでの観念主義、形式主義」の教育であると書いた。

書斎でくつろぐ清沢(1937年ごろ)

清沢は35年の論文「現代日本論」でも、「注入主義の教育は、何が善であり、何が悪であるかということを内容も検討せずに教え込む」「詰め込み教育の危険なのは、物を批判的に見ず、ある既成概念を固守する結果、社会的に討議して、漸進的進歩の道をとるということが困難だ」と日本の教育について批判している。

リベラルに徹し

清沢の故郷、長野県安曇野市の「清沢洌顕彰会」事務局長、永沼孝致さん(84)は初めて清沢の論文を読んだとき「あの時代にこういう考え方の人がいたのか」と感動したことを覚えている。

永沼さんは終戦時19歳。海軍予科練の飛行練習生だった。兄2人は陸軍で戦死した。「頭から足の先まで軍国主義に染まっており、自分も死ぬつもりだった」。清沢の書いたものを読んで「自分の視野がいかに狭かったか気づいた」という。「清沢さんにとって、人間に一番大切なことは自由と幸福を追求すること。それを阻む戦争には徹底して反対だった」

清沢は軍国主義一色に染まりつつある当時の新聞も批判した。「日本の新聞の欠乏しておるものは、リベラリズムの立場がないこと」「リベラリズムのない国の新聞というものは、とかくに一つのサイドのニュースしか伝え得ない」「ジャーナリズムだけには両方の立場を公平に報道するというリベラリズムが必要である」(34年講演)

戦後への「遺言」

清沢の次女、池田まり子さん(80)は「父は勉強について何も言わなかったが、人を肩書で見てはいけないと言っていた。父にとっての教育とは学問だけではなかったように思う」と話す。まり子さんが好きだという「わが児に与ふ」(33年)という文章に清沢の考え方がよく表れている。

「お前にただ一つの希望がある。それはお前が相手の立場に対して寛大であろうことだ。そして一つの学理なり、思想なりを入れる場合に、決して頭から断定してしまわない心構を持つことだ」

しかし、日本は多様な意見を容認しない、清沢の理想と正反対の偏狭な社会になっていく。41年2月、清沢は内閣情報局によって「意見の発表を禁止すべき人物」にリストアップされ、発言の機会を封じられる。

いずれ日本は敗北すると確信した清沢は、戦後に発表するための資料として戦時の日本社会、日本人の姿を日記に活写していく。対米戦にあたって、米国通を活用するどころか迫害する知識軽視の軍部や一つの考え方しか持てない国民を厳しく批判する。

「世界の歴史において一国の政治が、かくのごとく低級無知なる人間の一団の手に落ちたる例ありや」(43年5月20日)、「元来が、批判なしに信ずる習癖をつけてこられた日本人」(45年4月17日)

45年5月21日、清沢は戦後を見ることなく、肺炎のため55歳で急逝する。死の4カ月前の日記には戦後日本への遺言のような言葉がある。

「言論の自由が行われれば日本はよくなるのではないか。来るべき秩序においては、言論の自由だけは確保しなくてはならぬ」

きよさわ・きよし(1890~1945年)長野県北穂高村(現安曇野市)生まれ。16歳で渡米し、苦学する。邦字紙記者を務めた後、1918年に帰国し、20年に中外商業新報(現日本経済新聞)外報部長となる。

東京朝日新聞を経て、29年評論家に。在米経験と豊富な国際知識を生かし、「日本外交史」などを著す。リベラルな姿勢を貫いたため、戦時中はほとんど発表を封じられた。戦時の軍国日本を痛烈に批判した日記が死後「暗黒日記」として刊行される。

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