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桐生悠々 軍に屈せず一人の戦い

戦争と言論人 足跡を訪ねて(2)

「言わねばならないことを言うのは、愉快ではなくて、苦痛である」

抵抗の新聞人として名を残す桐生悠々が使っていたと伝えられている机が信濃毎日新聞本社(長野市)にある。主筆にふさわしい重厚な作りだ。2005年の社屋建て替えまで、歴代の編集局長はこの机の前に座ることになっていた。

「権力に敢然と立ち向かった立派な記者がいたという誇らしい気持ちと、軍の圧力に負けて彼を守りきれなかったジャーナリズム企業としての敗北感の両面がある」と同社専務の小坂壮太郎さん(48)は語る。

大演習を批判

悠々が主筆時代、「経営は編集に介入せず」の方針のもと、オーナーである小坂順造社長、弟の武雄常務(のちに社長)は、悠々の社長批判の論説でさえ容認した。壮太郎さんは武雄常務の孫だ。その小坂家が悠々を切らざるを得なかった痛恨事があった。

1933年(昭和8年)、「関東防空大演習を嗤(わら)う」という社説が掲載された。数日前に行われた陸軍の大規模な演習を論じたものだが、悠々は「敵機を関東の空に、帝都の空に、迎え撃つということは、我軍の敗北そのものである」と断言した。敵爆撃機は日本沿岸までで防がねばならず、本土に侵入を許せば東京は関東大震災と同様に焼け野原になると警告した。

「中身は悪いものでも何でもないんです。きわめて妥当な意見です。それを(あざける意味の)『嗤う』ときたからばかな兵隊、頭にきたわけです」と当時を知る同社の元編集局長、坂本令太郎さん(故人)は証言している。

以前から信毎の反軍的論調を快く思っていなかった軍関係者はこの機を逃さなかった。地元の在郷軍人会幹部が同社に乗り込み、不買運動を展開すると脅した。当時の信毎の発行部数は約2万部。在郷軍人会は8万人にも及ぶ。信毎存亡の危機に悠々は社を去らざるを得なかった。

 05年に同社として50年ぶりに復活させた主筆を務める中馬清福さん(74、元朝日新聞論説主幹)は「悠々の時代の新聞社は丹頂鶴のように頭の上の主筆だけが論じていた。それがいかに弱かったかを感じる。記者全員が共通の論を持っていなければ圧力に屈するのは早い」と一人で戦うことの難しさを語る。

弾圧に次ぐ弾圧

しかし、悠々は一人で戦い続けた。退社翌年の34年から個人雑誌「他山の石」を発行。二・二六事件の際は「だから、言ったではないか、はやくに軍部の妄動をいさめなければ、その害の及ぶところ実に測り知るべからざるものがあると」と書くなど、舌鋒(ぜっぽう)鋭く軍部批判を続けた。

これに対し軍当局は発禁・削除処分で弾圧。11人の子だくさんだった悠々の生活は困窮した。日本が太平洋戦争に突入する3カ月前の41年9月に廃刊を余儀なくされる。「廃刊の辞」に「この超畜生道の地球から喜んで去る」と書き、同月喉頭(こうとう)がんで亡くなった。通夜の席には追い打ちをかけるように廃刊の辞の発禁命令書が届いた。

――蟋蟀(こおろぎ)は鳴き続けたり嵐の夜

東京・多磨霊園の悠々の墓の隣に自身の句碑が建っている。軍国主義の暴風の中、「言わねばならないこと」を言い続けた悠々の死の4年後に敗戦。焼け野原にたたずむ人々は、彼の予言の正しさと軍部が指導した戦争の嗤うべき愚かさを思い知ったのだった。

きりゅう・ゆうゆう(1873~1941年)本名政次。金沢生まれ。大阪毎日新聞、朝日新聞などを経て、1910年に信濃毎日新聞主筆に就任。乃木将軍殉死批判の社説が物議を醸す。

14年に他社に移ったが、28年に信濃毎日新聞主筆に復帰。33年の社説「関東防空大演習を嗤う」で軍関係者の反発を受けて退社。以後、個人雑誌「他山の石」を発行して時局や軍部の批判を続けるが、度重なる発禁など弾圧を受ける。太平洋戦争直前の41年9月に死去。

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