石橋湛山 貫いた「小日本主義」
戦争と言論人 足跡を訪ねて(1)
1933年(昭和8年)1月、石橋湛山は東洋経済新報の社説で共産党の検挙事件について、弾圧よりも大いに共産主義を語らせる言論の自由を認めるべきだと説いた。共産思想に誤った部分があるにしても、言論の自由があってはじめて人々はそれに気がつくのであって、弾圧によっては何も改善されないという。

湛山は他の社説でも言論の自由は「うっ積すべき社会の不満を排せつせしめ、その爆発を防ぐ唯一の安全弁」であるとし、様々な報道がなされることで国民の批判能力を養い、「見解を偏らしめず、均衡を得た世論」をつくると訴えた。
「湛山の言う言論の自由とはすべての人にとっての自由。どんな過激な主張でも国民はそれを知ってから判断すべきだということ」と湛山が設立した社団法人「経済倶楽部」理事長、浅野純次さん(70)は言う。
植民地を棄てよ
しかし、湛山が言論の絶対自由を訴えた33年に京大の滝川事件、35年には天皇機関説問題が起き、思想・言論の弾圧は過激思想どころか自由主義やごく常識的な学説にまで及んでいった。湛山は言論抑圧で国民の視野が狭まり、極端な方向に進むことを懸念した。
それまでも「一切を棄(す)つるの覚悟」(21年社説)で朝鮮、台湾、満州などの植民地、権益の放棄を主張。「大日本主義の幻想」(同)で軍事力による膨張主義を批判し、平和な貿易立国を目指す「小日本主義」を提唱した。そして「いかなる民族といえども、他民族の属国たるを愉快とするごとき事実は古来ほとんどない」と植民地の人々の心情に対する日本人の想像力の欠如も指摘した。
湛山の母校、甲府第一高校の教諭だった山梨平和ミュージアム(石橋湛山記念館)理事長の浅川保さん(64)は「植民地を全部捨てろというのは当時の国策と百八十度違う過激な意見。でも、その後の日本の進む道を予見している。日本の近代史に残る名論文だと思う」と評価する。
31年の満州事変を機に新聞の軍部批判は影を潜め、世論は戦時体制一色となった。その中で湛山は「国防線は日本海にて十分」「中国全国民を敵に回し、引いては世界列強を敵に回し、何の利益があるか」と孤高の論陣を張り続ける。ときには軍部を「ばい菌」とまで痛罵(つうば)した。
現実の数字重視
「経済雑誌の伝統として現実のデータを重視するプラグマティズムがあった。最大の貿易相手の米国と戦うことの損失は湛山にとっては明らかなことだった」と東洋経済新報社社長の柴生田晴四さん(62)は話す。
太平洋戦争が始まってからも自由主義の旗を降ろさない湛山と東洋経済新報は軍部ににらまれる。社内では軍部に協力しようとの声も上がったが、湛山は断固反対した。「伝統も主義も捨て、軍部に迎合し、ただ東洋経済新報の形だけ残しても無意味だ。そんな醜態を演じるなら、いっそ自爆して滅びた方がいい」
湛山の孫で石橋湛山記念財団理事長の石橋省三さん(61)は、晩年の湛山の書斎の前の扉が厚い鉄板だったことを覚えている。襲撃に備えたもので、命懸けの言論活動の名残だった。
日本国中が敗戦に打ちひしがれ、絶望していた45年8月、湛山は真骨頂ともいえる論説を書く。「更生日本の門出 前途は洋々たり」として、日本は科学精神に徹底し、世界平和の戦士として全力を尽くせば未来は明るいと見通した。
省三さんは言う。「祖父は日本人の能力を信じていた。一方で、寄らば大樹で流されたことを反省し、自律した考えを持つことを求めていた」
いしばし・たんざん(1884~1973年)東京生まれ。新聞社を経て1911年に東洋経済新報に入社、のちに社長。自由貿易こそ日本を発展させるとして、武力による対外膨張政策を批判。植民をすべて放棄する「小日本主義」を唱えるなど、軍国主義に反対し続けた。
戦後は第1次吉田茂内閣の蔵相に就任。47年に公職追放。解除後に鳩山一郎内閣の通産相を務める。56年12月に内閣総理大臣となるが、遊説中に倒れ、翌年2月に退任した。
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昭和前期、報道機関は軍部の弾圧により、戦時体制下に組み込まれた。軍国主義の嵐の中、弾圧と戦い、現実的な「常識と正論」を説いた言論人は数少なかった。厳しい時局での少数意見の中には、単純な反戦思想だけではなく、現在にも通じる日本の国民性批判も含まれている。代表的な言論人のゆかりの人を訪ね、その足跡を振り返る。
(この企画は編集委員の井上亮が担当します)