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打倒 広辞苑に動く小学館 デジタルで「舟を編む」

小学館がスマートフォン(スマホ)革命に乗り、辞書事業で攻勢をかけている。現場の合言葉は「デジタルで打倒、広辞苑」。紙の時代、岩波書店の広辞苑など「王者」が圧倒的な認知度を誇ったが、スマホやタブレット(多機能携帯端末)が登場しメディアが転換期を迎えた今こそ形勢逆転の好機ととらえる。国語辞書「大辞泉」で斬新なアプリを投入し、10~20代の若者から支持を広く集めることに成功。辞書の世界では2番手グループに甘んじることもあった「小学館ブランド」をトップクラスへ押し上げようとあの手この手を繰り出す。

不況にあえぐ出版社にとってデジタルは、再び成長路線に乗るための最後のとりで。まして辞書は長い時間をかけて育て上げた、出版社ならではのかけがえのないお宝。スマホブームのおかげで「知の財産」が広くあまねく国民に広がれば、その意義は大きい。小学館の挑戦は、デジタル戦略に悩む出版社にとって大きなヒントを与えてくれそうだ。

ソーシャルゲーム感覚の無料アプリで若者の心つかむ

小学館で大辞泉を担当する板倉俊プロデューサーは、社内でもデジタル通として知られる。「デジタルは面白い。紙でできないことが何でもできる」と語る

「なぜ、新しい辞書の名を『大渡海』にしようとしているか、わかるか」「辞書は、言葉の海を渡る舟だ」「海を渡るにふさわしい舟を編む」――。辞書編さんに携わる主人公、馬締(まじめ)光也の活躍を描いた三浦しをんさんの小説「舟を編む」の一コマだ。全国の書店員が最も売りたい本を選ぶ「2012年本屋大賞」に選ばれ、4月に映画化されたのは記憶にまだ新しい。8日には映画のDVDも発売された。

辞書を愛し人生のすべてをかける小学館の「馬締君」が、大辞泉を担当する板倉俊プロデューサーだ。ただし馬締君と違ってこの道約30年の超ベテラン編集者で、デジタルにも明るい。「紙ではできないことを何でもやれるのがデジタルの面白さ。中身の良さを技術の力で引き出せば辞書の世界での力関係をひっくり返せる」。板倉氏はこんな野望を持つ。

小学館が今、デジタル戦略の旗印として掲げるのが大辞泉のスマホ版だ。2008年に登場した初の国語辞書アプリ(応用ソフト)の後継版を5月に投入。ソーシャルゲームの概念を採り入れるなど斬新な工夫が大いに話題を呼んだ。既に12万人以上が日々の生活で役立てている。

アプリ(応用ソフト)はスマートフォンのほか、タブレット(多機能携帯端末)に対応したタイプもラインアップ。iPhone版とiPad版(写真)は無料だ

無料で検索できるのは15語までだが、15分たつと1語ずつまた検索可能になる。お金を払えばすぐに15語まで復活する。今までにないこんな工夫が人気の理由だ。敵からダメージを受けると一定時間たたなければ先に進めなくなり、プレーを急ぎたいなら時間をお金で買うソーシャルゲームとそっくり。辞書を引くのが楽しくなったと、若者たちの心をつかんだ。

アプリの価格を前バージョンの2000円から無料に変えるのは相当悩んだという。大辞泉は編さん開始から約50年近くたつ由緒ある国語辞書で、紙を買ってくれた読者は1万2600円(税込、12月までの特別価格)も払ってくれている。

最終的な決め手になったのは「本当に使ってほしい人が買えない辞書アプリに何の意味があるのか」(板倉氏)という気持ちだった。有料なら紙の読者の置き換え需要ばかりしか見込めないが、「無料なら1日数万人が新しい読者としてファンになってくれるかもしれない。特にお金がなく勉強に辞書が必要な10~20代の若者にこれを届けたいという思いが勝った」(板倉氏)

もちろん慈善事業ではないので収益が見込めなければ、単なる無料化はリスクが大きすぎる。そこで検索できる語数を15語に設定。少なすぎてもうけ主義としてとらえられることもなく、多すぎて収益に影響が出ないぎりぎりの線を探った結果だった。

成功の陰に実力派ベンチャーの存在あり

アプリ開発で小学館を支援するのが「駅探エクスプレス」などで実績があるHMDT(東京・文京)。木下誠社長はアプリ開発関連の著書も多く、ソフト業界にはお世話になったプログラマーがそちこちにいる

これまでも無料の辞書アプリはあったが、語数が少ないか広告付きのものがほとんど。収録数が数十万語に及ぶ巨大辞書を、しかも出版社自ら無料で提供するのは珍しい。大胆な決断を下せたのは板倉氏の尽力が大きいが、開発を全面支援した気鋭のIT(情報技術)ベンチャーの力があったことは見逃せない。

それがHMDT(東京・文京)。アプリ開発を専門とし、2008年に米アップルがアプリ販売サービス「AppStore」を始めると同時に自社ブランドや大手企業からの受託アプリ開発に取り組んだ。これまで関わったのは、路線検索アプリ「駅探エクスプレス」など100種類近くに及ぶ。ハドソンから受託した「Catch The Egg」は全米ランキングで1位を取得し、開発力には定評がある。

小学館とHMDTの出合いは08年にまでさかのぼる。当時板倉氏は大辞泉の第二版を12年に発刊すべく作業を進めていたが、iPhoneなどを使う若者が激増する状況をみていち早く手を打ちたかった。スマホのノウハウを得ようとパートナーを探す中で、キラリと輝きアプリ開発で先頭集団を走っていたのがHMDTだった。

白羽の矢が立ったHMDTは板倉氏の期待に応えた。開発をスピーディーに進め08年11月には大辞泉をリリース。国語辞書アプリ第1号の称号を手に入れた。その数週間後に三省堂の国語辞書「大辞林」をベンチャーの物書堂(東京・江東)が出すなど競合が相次ぐなか、先手をとった大辞泉のアプリは高価ながら約9万人がダウンロードした。

アプリ開発ベンチャーのHMDTはこれまでに100種類近いアプリを開発した実績がある

5月に一新した新版は無料にしただけでなく、画面デザインを根本から見直し一新した。HMDTの木下誠社長は「一般人を集めて旧版の使い勝手を検証するテストを実施したところ、どう使っていいか悩む人が多かった。苦い反省があった」と明かす。画面構成や質感を現実のものに近づける「スキューモーフィック」という08年当時はやっていたデザインを採り入れていたが、約4年半が経過し陳腐化。シンプルに変える必要があると考え一から作り直すことにした。「アップルの最新iOS7とも親和性が高い、先端的なモダンデザインを採用した」(木下社長)

コンセプトは「検索エンジン」だ。「今何か調べたいことがあったら多くの人が最初に飛びつくのが検索エンジン。彼らが違和感なく使えることこそがネット全盛の今、辞書の入り口として理想の姿」(木下社長)。起動して単語を調べてみると、単語と1~3行ほどの本文の羅列が並ぶ。それぞれの意味を一目でざっと見渡し把握できるのは、確かに検索エンジンの使い勝手に近い。

目的の単語を押すと意味を表示するのはもちろん動画や写真、関連する類語や慣用句などもずらりと並ぶ。画面をスクロールすると類語などの1~3行ほどの本文もすぐ読める。もちろん単語を押せばジャンプし、詳しく調べを進められる。

編さんシステムの先進性に他社もうらやむ

小学館自慢の辞書を編さんするデータベースシステム。06年から導入したことが奏功しスマホ時代にいち早く対応することができた

木下社長は「大辞泉アプリのライバルはほかの辞書アプリではない。グーグルだ」と断言する。検索エンジンに似せつつも「肝心の検索結果で得られる情報の質の高さではネットには絶対に負けない」(木下社長)と胸を張る。約50年の歴史で蓄えた信頼のおける約27万語の言葉の海を、しかも無料で探検できる安心感と楽しさをぜひ味わってほしいとする。

実は小学館には他社がうらやむ先進的な辞書の編さんデータベースシステムがある。大辞泉については作業工程をカード式の紙を使った手書きからシステムへと06年に移行。スマホ時代にいち早くデータの利活用に取り組むことができたのはこのシステムのおかげだ。編さんシステムはいまでは珍しくないが、HMDTの木下社長は「大辞泉のシステムはデータの扱い方が今の時点でも先進的。それをどう生かすかが腕の見せどころでやりがいがあった」と称賛する。

写真や動画、地図も多数収録しており、百科事典のような楽しみ方もできる

具体的にはウェブに近いXMLと呼ぶコンピューター言語を採用して管理する仕組み。単語ごとに付随情報(メタデータ)をいくつも追加できる点が新しい。例えば「障害者」という単語だったら「障がい者」「障碍者」「しょうがいしゃ」などの文字列を関連づけて登録しておく。おかげで利用者が交ぜ書きなど登録した単語と違う入力をしたとしても、検索結果として「障害者」をヒットさせることができる。これは検索エンジンでは当たり前のことだが辞書アプリでは必ずしも実現できていないという。

ほかにも「マネージメント」と「マネジメント」、「坂本竜馬」と「坂本龍馬」、「アボカド」と「アボガド」など表記の揺れや異体字、誤入力を想定してメタデータをいくつも入力。「間違って検索してもヒットしなければ『この辞書は使い物にならない』とのレッテルを貼られてしまう」(小学館の板倉氏)。XMLの力を借りることで、利用者視点で利便性を高めたというわけだ。同様に類語や慣用句などほかの単語も関連づけている。だからこそ、検索結果を表示する際に瞬時にメタデータを読み込み、それを一覧表示させられる。類語は3万5000語分、写真や地図も1万点ずつと充実している。

小学館はこの編さんデータベースを逐次メンテナンスしており、年に3回新語を2000~3000語ずつ追加している。その結果、25万語を収録した紙の大辞泉に対して、アプリは11月時点で26万5000語と単語数が多い。8月の更新では「少額投資非課税制度」「ネット選挙法」「微博(ウェイボー)」「歩きスマホ」「アヒージョ」「まめぶ汁」などを加えた。

米アマゾン・ドット・コムが電子書籍端末の内蔵辞書として採用するなど、大辞泉ならではのXMLによる付随情報(メタデータ)の扱い方の先進性に評価が集まっている

欧州連合(EU)に加盟した「クロアチア」にはその旨を記述するなど、毎回1万語近くは最新の事情に合うよう加筆・修正してある。2015年には収録数を28万語まで増やす計画である。

中身の良さを技術の力で引き出そうとする小学館の取り組みには、国内外のネット企業も熱い視線を注ぐ。米アマゾン・ドット・コムは電子書籍端末「Kindle」に標準辞書ソフトとして大辞泉を採用。小説などを読んでいて分からない単語があった場合、その場でジャンプして意味を調べられる。ヤフーもポータルサイトで提供中の辞書検索サービスで、大辞泉のデータを活用している。

中身が良いだけでは広辞苑を抜けない

これだけ手を打ったにもかかわらず、板倉氏の目にはまだまだ不十分に映る。「信頼性に対する広辞苑のブランドイメージはとてつもなく高い」からだ。岩波書店自身はアプリ開発を手掛けずソフト会社などが広辞苑のデータを活用してアプリを提供するが「機能でも単語の鮮度でも勝っているとの自負があるのに、ブランドで広辞苑を選ぶ利用者が少なくない」と悔しさをにじませる。スマホの世界でも、後続だった物書堂の大辞林が画面デザインのこだわりが評価され2009年度のグッドデザイン賞を受賞。知名度を得たことが追い風となって26万本のヒットを許し悔しい思いもしている。

広辞苑を追い抜くには中身の充実だけでなくブランド力向上も必要と判断。ウェブサイトなどを通じたファンづくりを積極的に進めている

そこで小学館が必死になって取り組んでいるのがブランド力の向上だ。電子辞書などを含めた紙以外の取り組みを総称して「デジタル大辞泉」と命名。ウェブサイトや交流サイト(SNS)のフェイスブックなどソーシャルメディアを駆使して、デジタル大辞泉の世界を共感してくれるファンづくりにいそしんでいる。

10月にはファンとの絆を強めようと「あなたの言葉を辞書に載せよう。」キャンペーンを実施。「愛」「自由」「カワイイ」「萌え」など8語をお題として提示し、ファンが思う言葉の意味を自由に投稿してもらった。

応募は合計で約6700件。例えば「カワイイ」なら「心の1番柔らかいところにすっぽり入る過酸化水素水」「とりあえずこう言っておけば害にならない"使える"言葉」といった具合。その単語を日常生活で使っている若者たちが肌で感じる言葉の解釈を辞書に取り込む挑戦だ。現在審査中で単語ごとに5~10種類の解釈を選び、採用されたものについてはアプリなどに今後反映していく。

小学館板倉氏とHMDT木下社長の夢は、こうした積み重ねで広辞苑など紙では「王者」だった辞書を人気でいずれ抜き去り、名実ともにネット社会の辞書としてナンバーワンブランドになることだ。英和辞書、仏和辞書、中日辞書なども順次アプリ化を進めており、それぞれ使い勝手を大辞泉並みまで引き上げる。

野心的な挑戦はまだまだ続く

紙の大辞泉は現行の第二版がおそらく最後になる見通し。1万2600円(税込、12月までの特別価格)と高価だが、収録語をデジタル形式で収めたDVDが付属しパソコンで検索もできる工夫がある。2015年まで年に3回ずつ最新版に更新ができる。ちなみに紙で横書きを採用した国語辞典は珍しい

板倉氏は「日本語を勉強したい外国人の需要も開拓したい」と目を輝かせ、木下社長は「利用者の母数が増えればゲームで使われる様々な要素を応用するゲーミフィケーションの手法を採り入れ、辞書を引くことをもっと楽しくできる」と熱弁する。スマホ革命吹き荒れる中、二人には挑戦の手をゆるめるつもりが毛頭ないようだ。

小説「舟を編む」の中で次のような一節がある。「作るのに莫大な金がかかるのはたしかだが、辞書は出版社の誇りであり財産だ。人々に信頼され、愛される辞書をきちんと作れば、会社の屋台骨は二十年は揺るがないと言われている」。ただ現実はネット社会が到来し日常生活が様々な無料の情報で埋め尽くされた結果、情報の出し手である出版業界は、手間暇かけて作ったコンテンツをお金に換えられず苦しんでいる。逆風吹き荒れるなか奮闘して国語辞書を完成させていく主人公の姿は、デジタルを武器に前へ前へ歩みを進める小学館の挑戦と重なって見える。

辞書や地図の情報はネットでタダで手に入るようになったが、コンテンツ自体の価値がタダになったわけではない。その価値を作り上げる人々をリスペクト(尊敬)する姿勢を利用者が忘れてしまっては、いずれ公共の財産ともいえる辞書を「編む」人がいなくなり、言葉の海は「舟」をこげないほど干上がってしまうかもしれない。

(電子報道部 高田学也)

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