家康のせい? 畳のサイズ、東に行くほど小さい理由

江戸間より小さい「団地間」
まず飛び込んだのは京都の畳店「畳三 中村三次郎商店」。店主で「文化財畳保存会」(京都市)の会長を務める中村勇三さん(83)によると「関西で多い『京間』、静岡以東に多い『江戸間』のほか、愛知に『中京間』などがあります。東に向かうほど小さくなります」。他に高度成長期の住宅需要を支えた公団住宅で採用された独自規格「団地間」もあり、江戸間よりさらに小さいという。
畳は平安時代から座具や寝具として重宝されてきた。最初は板の間の一部に敷く「置き畳」で、貴族の位によって、大きさや厚さが異なったという。畳を部屋中に敷き詰めるようになったのは書院造りの建築が普及した鎌倉時代以降。6尺3寸(191センチ)×3尺1寸5分(95.5センチ)の京間が現れた。
家康の検地が下敷き?
では江戸間の由来は? 「江戸に幕府を開いた徳川家康が検地の際、より多く年貢米を取り立てるため、1間(けん)の長さを豊臣秀吉の時代より短くしたためと聞いたことがあります」と中村さん。徴税の単位となる1坪は1間四方で、「1間は畳の長辺にほぼ相当します」。
1間の長さは明治期に尺貫法で6尺で統一されたが、それまで「地域や時代によって為政者の政策が反映され、ばらばらでした」と全国畳産業振興会(京都市)の神辺●(金へんに榮)一会長(76)が教えてくれた。秀吉による太閤検地までは1間=6尺5寸だったが、秀吉はそれを縮めて6尺3寸で検地し、江戸幕府はさらに6尺に縮めた。このため、地域ごとに畳のサイズに違いが生じたのだという。

建築方法の違いが理由?

一方、「住宅の建築方法の違いが畳の違いを生んだ」との説もある。関西では畳に合わせて柱を立てる「畳割り」という方法が一般的だ。それに対し、短期間で人口が増えて住宅への需要が急増した江戸では効率化のため、柱の中心と中心の間隔を1間(6尺)とする「柱割り」が主流になり、このため江戸間の畳は柱の太さの分だけ1間より小さくなったのだという。
東京の畳店「湊屋 加藤畳店」14代目、加藤丈幸さん(48)は「住宅ごとに部屋の広さを測り、微妙なサイズを調節するのが江戸間です。『京間は大工の腕の見せどころ、江戸間は畳屋の腕の見せどころ』と父から厳しく仕込まれました」と話す。
ハウスメーカーはどう対応しているのか。大和ハウス工業に尋ねると「要望がない限り、尺貫法に従って江戸間を採用しています。大手メーカーはおおむね同じでは」とのことだった。
茶道は京間があってこそ
畳の需要は20年前の3~4割に激減している。「掃除しやすいフローリングの人気に押され、住宅から和室が消えつつあります」(全国畳産業振興会)といい、業界の危機感は強い。
それでも「京間の畳は絶対に無くなりません」と言い切るのは、茶室の畳を手掛ける「嵯峨 藤本畳店」の藤本正さん(61)。裏千家では「畳半畳を2歩で歩く」のが原則で、座る位置や茶器の置き場所などの作法が細かく決められ、京間の畳でないと茶はたてられないという。
「昔は畳1枚と1日2合のコメがあれば生きていけるといわれた。大人1人がごろんと寝転べる京間こそ畳の本流です」。中村さんはこう強調する。
畳が文化や時代背景抜きに語れないことがよく分かった。さあ畳にごろんと寝転がり、一眠りするか。
(大阪社会部 榎本行浩)
[日本経済新聞大阪夕刊いまドキ関西2012年10月17日付]