2019年2月20日(水)

六本木での半世紀にわたる「独立戦争」、IBMと日本人

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2012/3/31 12:24
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半世紀にわたる独立戦争が終わりを告げた。日本IBMの社長にドイツ人のマーティン・イェッター氏が就任する。日本人以外が同社の社長になるのは56年ぶりだ。

社長交代を発表する日本IBMの橋本孝之社長(左)とマーティン・イェッター次期社長(30日午後、東京都中央区)

社長交代を発表する日本IBMの橋本孝之社長(左)とマーティン・イェッター次期社長(30日午後、東京都中央区)

「Sell IBM in Japan.Sell Japan in IBM」。日本IBMで中興の祖とされる椎名武雄社長(在任1975年~93年)の口癖である。意訳すれば「日本でIBMのコンピューターをがんがん売り、IBMの中で日本(または日本人)の地位を上げろ!」となる。見よう見まねで始まった日本のコンピューター産業を本家アメリカに認めさせる。それが椎名の望みであり、日本IBMの歴史だった。

富士通や日立製作所から見れば日本市場を脅かす「外資」だが、六本木に本社を構える日本IBMで働く人々は、日本の地位を高めるために汗を流した。椎名時代に始まった日本IBMの成長は「ささやかな独立戦争」でもあった。

日本IBMで社長、会長を務めた椎名武雄氏

日本IBMで社長、会長を務めた椎名武雄氏

椎名を支えた2人のサムライを紹介しよう。

1人は三井信雄。米国人に見劣りしないかっぷくの良さと、にこやかな表情はケンタッキー・フライドチキンの「カーネルサンダースおじさん」を思わせたが、その風貌とは裏腹に米IBMでは「Notorious Mii(悪名高き三井)」と畏怖された。「Notorious MITI(悪名高き通産省)」のパロディーである。技術を見る目の確かさには定評があったが、歯に衣(きぬ)着せぬ物言いで恐れられもした傑物である。

NHKの技術者だった三井は1969年、IBMに引き抜かれ、73年に日本IBM研究所の所長になった。メーンフレームと呼ばれる大型汎用コンピューター全盛の時代にいち早く「コンピューターの小型化」を予見し、日本でその開発に着手した。日本IBMの副社長になった90年には米IBMの副社長にも選ばれ、93年からは戦略子会社「パワー・パーソナル・システム」の社長を務めた。

もう1人のサムライは丸山力。藤沢研究所に陣取り、91年にIBMにとって初のノートパソコン「Think Pad(シンクパッド)」の原型を開発した。

メーンフレームの全盛が終わりコンピューター市場に「ダウンサイジング」の嵐が吹き荒れる中、藤沢の丸山は自信満々だった。「半導体、液晶、バッテリー、コンデンサー、実装技術……。日本なら、パソコンに必要な部材と要素技術のすべてがそろう。

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