六本木での半世紀にわたる「独立戦争」、IBMと日本人
半世紀にわたる独立戦争が終わりを告げた。日本IBMの社長にドイツ人のマーティン・イェッター氏が就任する。日本人以外が同社の社長になるのは56年ぶりだ。

「Sell IBM in Japan.Sell Japan in IBM」。日本IBMで中興の祖とされる椎名武雄社長(在任1975年~93年)の口癖である。意訳すれば「日本でIBMのコンピューターをがんがん売り、IBMの中で日本(または日本人)の地位を上げろ!」となる。見よう見まねで始まった日本のコンピューター産業を本家アメリカに認めさせる。それが椎名の望みであり、日本IBMの歴史だった。
富士通や日立製作所から見れば日本市場を脅かす「外資」だが、六本木に本社を構える日本IBMで働く人々は、日本の地位を高めるために汗を流した。椎名時代に始まった日本IBMの成長は「ささやかな独立戦争」でもあった。

椎名を支えた2人のサムライを紹介しよう。
1人は三井信雄。米国人に見劣りしないかっぷくの良さと、にこやかな表情はケンタッキー・フライドチキンの「カーネルサンダースおじさん」を思わせたが、その風貌とは裏腹に米IBMでは「Notorious Mii(悪名高き三井)」と畏怖された。「Notorious MITI(悪名高き通産省)」のパロディーである。技術を見る目の確かさには定評があったが、歯に衣(きぬ)着せぬ物言いで恐れられもした傑物である。
NHKの技術者だった三井は1969年、IBMに引き抜かれ、73年に日本IBM研究所の所長になった。メーンフレームと呼ばれる大型汎用コンピューター全盛の時代にいち早く「コンピューターの小型化」を予見し、日本でその開発に着手した。日本IBMの副社長になった90年には米IBMの副社長にも選ばれ、93年からは戦略子会社「パワー・パーソナル・システム」の社長を務めた。
もう1人のサムライは丸山力。藤沢研究所に陣取り、91年にIBMにとって初のノートパソコン「Think Pad(シンクパッド)」の原型を開発した。
メーンフレームの全盛が終わりコンピューター市場に「ダウンサイジング」の嵐が吹き荒れる中、藤沢の丸山は自信満々だった。「半導体、液晶、バッテリー、コンデンサー、実装技術……。日本なら、パソコンに必要な部材と要素技術のすべてがそろう。
コンピューターの主役がパソコンになるのなら、IBMにとってはここ(藤沢)が世界の中心になる」。世界中から選り抜きの技術者が「フジサワ」に集められた。

元を正せば半導体もコンピューターも米国生まれの技術。米メーカーと日本メーカー、米IBMと日本IBMの間には雲泥の技術格差があった。だが三井や丸山のようなサムライ技術者たちは「Sell Japan(日本を売り込め!)」をあきらめなかった。
やがて日本の半導体は世界市場でトップシェアを握り、フジサワ生まれのThink Padが世界中でヒットした。日の丸ITは悲願の独立を果たしたかに見えた。
だが、そこから世界は大きく変わった。90年代のダウンサイジングで経営危機に直面したIBMが復活したのは2002年。ここから6年間で同社の世界従業員は7万人増えているが、うち6万8000人はインドIBMの採用だ。
米国の人員は06年からの3年間で1万2000人減っている。米国から日本に移るはずの「世界の中心」がインド、中国に奪われた。グローバリゼーションだ。日の丸ITはこの流れに乗り遅れ、日本IBMの売上高も減り続けた。そして、ついにドイツ人社長を迎える。
グーグルは2010年に日本法人の社長職を廃止した。フェイスブックの日本法人はシンガポールにあるアジア本社の管轄下にある。インターネットの時代になって、日本の地位低下は一段と進んでいるように見える。野球やサッカーで日本人選手の海外での活躍を喜んでも、ビジネスには勝てない。
椎名なら、きっとこう言うだろう。
「Sell Japan around the world(世界に日本を売り込め!)」
=敬称略
(産業部 大西康之)