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三原「修→脩」 名監督の改名は筋書きのないドラマ

プロ野球の監督として巨人、西鉄、大洋と史上初めて3球団で優勝を経験し、1960年の大洋では前年の最下位チームを日本一へと導く球史唯一の快挙を遂げた「魔術師」こと三原脩(1911~84)。輝かしい球歴はもちろん、「野球は筋書きのないドラマである」といった名言でも知られています。その一方で、51年に「おさむ」の字を「修→脩」と改めている事実はあまり語られていません。不世出の名将が、脩の字に込めた決意とは――。

「修」と「脩」は別字

「脩」と「修」は形が似ているだけで、全く別の字。「富」「冨」のような異体字関係か、「灯」「燈」のような新字体・旧字体の関係との誤解も少なくありません。そもそも脩を「おさむ(おさめる)」と読むこと自体、修との混用から始まっているぐらい紛らわしいのです。脩は攸(細長い)+月(にくづき)で、本来は「細長く引き裂いた干し肉」という意味。修は攸+彡(飾り)から「でこぼこしたものを、細く長く水を注いだり飾りをつけたりして形を整える」が原義で、転じて「物や文章を形良くする」「人格を立派にする」といった「修める」の意味が生まれました。成り立ちは異なる2字ですが、攸に由来する音が同じため後に通用されるようになります。何せ1世紀末ごろに成立した、現存する中国最古の漢字字書「説文解字」には既に脩の「おさめる」の意味が掲載されているほどです。

「監督『修』業」からの決別?

修を脩に変えたところで、詰まるところ「おさめる」意味は一緒。それでも、三原には名前を変えずにはいられない特別な理由があったのです。自叙伝「風雲の軌跡」(83年)など複数ある自著でも触れられなかった改名の動機を、長男の博さん(78)が明かしてくれました。「監督として『習っておさめる』立場から、『上からおさめる』立場になりたかったのではないか」。話をまとめると「修の字ではまだまだ『修学』中のようだし、いつまでも『修業』する身でもあるまい。そうではなく、もっと大局的な視点から『おさめる』監督にならなければいけない」。「修学」「修業」といった発展途上を表す熟語のイメージとの決別と、より高次の立場から「おさめたい」という願いを脩の字に託したようなのです。

巨人での排斥事件が伏線に

戦火をくぐり抜けた三原は46年に復員。当座は読売新聞で運動記者を務めたものの、巨人(の前身)で現行の日本プロ野球におけるプロ契約第1号となったスター選手でもあり、球団が放っておくわけがありません。47年途中から監督としてのキャリアをスタートさせると、同年5位のチームを立て直して48年に2位、49年には戦後初の優勝と着実に成績を上げ、早くも手腕を発揮します。

順風満帆に見えた監督生活も、49年に終生のライバルである水原茂(1909~82)が抑留されていたシベリアから帰国、巨人へ復帰したことで運命が変わります。三原と水原は同じ香川県出身であるばかりか、それぞれ(旧制)高松中・高松商、早大・慶大とライバル校で過ごした因縁の間柄。チーム内では水原派がにわかに台頭、「水原監督」が実現しなければ集団脱退するといった動きが表面化するに至ります。三原は選手引き留めのため自ら身を引く決意を固めますが、その年の優勝監督の交代劇は異例の出来事。「もし自分がもっとチームをうまく『おさめる』ことができていれば、排斥運動も起こらなかった」との気持ちを抱いたのは想像に難くありません。この蹉跌(さてつ)が改名の伏線となりました。

「脩」に込めた巨人打倒

49年末、監督を水原に譲ってユニホームを脱いだ三原には「総監督」の肩書が与えられますが、実際にはこれといった仕事もない窓際族でした。選手・監督として尽くした球団からの理不尽な仕打ちに遭うさなか、舞い込んだのが西鉄からの監督就任要請。50年限りで巨人を退団し、51年初めに西鉄が本拠地を置いていた福岡へと渡ります。三原が脩へと改名したのは、まさにこのタイミングでした。監督の座を追われた苦い記憶を、自戒の意味も込めて胸に刻むために。「巨人の三原修」から「西鉄の三原脩」へと、新天地で新しい自分になるために。心中を察するに、様々な決意を込めたことでしょう。「心機一転の改名という見方は、多分その通りだろう」と博さん。「巨人は相当強いチームだったから、それを破るチームをつくるという決意もあったはず」とも加えています。

三原が巨人や水原に対してどれほど激しい感情を抱いていたか、自著にほとばしるような筆致で記している点も裏付けになります。「当時、九州へ都落ちしていくときの複雑悲壮な気持は、言葉や筆では、とうてい現わせない。必ず都へ攻め上り、巨人軍をたたいてやろう、と心に誓ったものだった」(「監督はスタンドとも勝負する」、63年)。「『水原君に煮え湯をのまされたんだ』と、繰り返し繰り返す。(略)。いつか、グラウンドで対決したときに、この怨念をぶつけよう」(「人づかいの魔術」、83年)。58年、水原巨人との日本シリーズで西鉄を率いた際の3連敗後の4連勝という今なお語り継がれる劇的な日本一も、筆舌に尽くし難い悔しさが原動力になってのことだったと思われます。

正式改名に戸籍法の壁

当時の新聞記事によると、読売は古巣とあってか他紙に先駆けて改名情報を知った形跡があります。51年1月19日付で早速と「三原脩」表記へ変更。遅れて開幕直前、3月25日付スポーツニッポンや3月29日付日刊スポーツなどでも脩表記が確認できます。この後もマスメディアでは「三原修」表記が散見されますが、既に述べたような脩と修の関係の誤解が理由の一端とみられます。もう一点、戸籍上はあくまで三原修のままだった点も挙げられます。 

戸籍を脩に変更しなかったのではなく、変更できなかったというのが真実です。47年まで日本人の命名には、漢字の使用に制限はありませんでした。それが「子の名には、常用平易な文字を用いなければならない」と定めた戸籍法が48年に施行されたことにより、当用漢字(1850字)のみへと限定されます。これではいかにも名付けには不便だということで、51年に92字の人名用漢字を新設。とはいえ脩は当用漢字にも、この92字にも含まれていませんでした。三原が脩へ改名したといってもこの時点ではプロ野球の監督としての登録名にすぎず、公的なものではなかったということです。

脩が人名に使えるようになったのは、常用漢字表の施行に合わせて人名用漢字に54字が追加された81年10月1日のこと。脩への改名申請を家裁に届け出たという博さんによれば「すぐに改名が認められた」そうで、名実ともに三原脩が本名となったわけです。一種のグラウンドネームとしてだけでなく、野球を離れた日常生活でも通称としても脩の字を用い続けた実績が考慮されたとみて間違いありません。

自ら人名用漢字への道を切り開く

三原の監督としての通算記録
試合32481位
勝利16872位
敗北14532位
リーグ優勝6回1949年巨人
54年、56~58年西鉄
60年大洋
日本シリーズ優勝4回56~58年西鉄
60年大洋

51年の人名用漢字に脩が入らなかったのは、40年に出版された「標準名づけ読本」が選んだ500字がベースになったためでした。これは紳士録などから1万人の名前を調べたもので、延べ2万2447字のうち脩は僅か2字とあって、500字からは漏れました。それが75年、法務省民事局が全国の市区町村の戸籍窓口を対象に行った調査では、脩は「人名に用いる常用平易な漢字として追加すべき漢字」の44位にランクイン。81年に正式追加となった次第です。これは実際に窓口で不受理となった漢字の出現頻度などを調べた調査で、脩の字を人名に使いたいと考えていた人が少なからずいたことを示しています。

人名用漢字の歴史に詳しい京都大学の安岡孝一准教授は「歌手の南沙織(芸名、71年デビュー)のように、確実に人名用漢字に影響を与えた有名人は存在する」と指摘します。前述の75年調査の1位は「沙」の字でした。脩もその類例である可能性は十分に考えられるのではないでしょうか。生まれた時点では人名に使えた脩の字が、「いざ改名せん」と決した頃には国の政策によって使えなくなったものの、自らの影響力で人名用漢字へと昇格する道を切り開き、晩年になってついに正式な改名を果たした――三原にとって脩の字を巡る過程もまた「筋書きのないドラマ」だった――そう感じられて仕方がありません。

(中川淳一)

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