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PCやMacの将来性を見抜けなかった誤算

DECをめぐる伝説と夢物語(下)

村上憲郎のグローバル羅針盤(12)

今回は米DEC(Digital Equipment Corporation)の共同創業者で、創業以来20年以上の長きにわたり社長の地位にあって、DECを世界第2位のコンピューターメーカーに育て上げたケン・オルセンについて書く。

村上憲郎(むらかみ・のりお) 元グーグル日本法人社長兼米本社副社長 1947年大分県佐伯市生まれ。70年京都大工学部卒。日立電子、日本ディジタル・イクイップメント(DEC)をへて、米インフォミックス、ノーザンテレコムの日本法人社長などを歴任。2003年から08年までグーグル日本社長を務める。

しかし、私自身を含む多くのケン・オルセンのファンには申し訳ないが、どうしてもDECの凋落(ちょうらく)にかかわる部分を書かざるを得ない。いずれにせよ、今年2月、84歳でご本人が他界した今となっては、真偽の確かめようもない噂話を含むので、前回同様、眉にたっぷり唾を塗ってお読みいただきたい。

私は、1986年7月から91年8月までの約5年間、日本DECからの出向社員として、米マサチューセッツ州ボストン郊外にあるDEC本社に勤務した。その間、ケンに日本からの来客や取材があるたびに、通訳を仰せつかって、その人柄に触れる機会を得た。

人懐っこく真摯だったオルセン氏

いつも、大きな頭に人懐っこい満面の笑みを浮かべて、大柄の体を左右に揺すりながら、ノッサノッサと部屋に入ってきた。そして彼の大きな分厚い手で握手した瞬間、相手はすっかり飲まれているというのが、いつものパターンであった。

当時、60歳前後だったが、人物の大きさと真摯(しんし)さが、物腰と話し方から、圧倒されるように伝わってきたのを今でも覚えている。

米DECの共同創業者で社長を長年務めたケン・オルセン氏(1990年ごろ撮影)

相手が誰であっても、その人の言うことを真剣に聴き、いい加減に相づちを打つなどということはまったくなく、真剣に自分の考えを述べていた。時として、頭の回転が早過ぎて、断定的な結論だけがポンポンと述べられるということもあり、下手な通訳としては、度々、困惑することがあった。

後で、「ノリオが通訳すると、僕が1分しかしゃべってないことが、どうして3分になるのか?」と、いたずらっぽい笑みとともに、冷やかされたこともあった。

私が、「相手に、基本的な前提知識がないので、それを……」と言いかけると、"I Know, I Know(分かってる、分かってる)"と言いながら、肩を抱いてくれたりもした。「日本から来た英語の下手くそな出向者を傷付けてしまったのではないだろうか」と心配してくれたのだと、今でも思っている。

ケンのオフィスは、「ミル」と呼ばれる創業工場の一角にあった。もともと、1860年代の南北戦争の頃、北軍の毛布を織っていた織物工場(mill)だった建物で、ケンはその荒れ果てたレンガ造りの建物の一角を安く借り受けて創業したのである。「ミル」は、ボストンから25マイル(約40キロメートル)程北西のメイナードという田舎町にあった。

創業(1958年)から四半世紀を経て、町のはずれに新築されたDECのオフィス群のおかげで、町は活況を呈していた。それでも、ケンは、新しいオフィスには移らずミルに居続けた。

DEC繁栄で活況に沸いた町

創業場所という思い入れもあっただろうが、25年の間に「ミル」は、すべての建物がDECの所有となり、綺麗(きれい)に改装され、板張りの床とレンガの壁が醸し出す一種独特の雰囲気を持ったすてきなオフィスに生まれ変わっていたからでもあったのだろう。だから、社員は、「ミル」で働きたいと思った。

「ミル」の唯一の問題は、南北戦争当時の無計画な建て増しで、建屋ごとの階が統一されていないことだった。迷路のような建物間をつなぐ渡り廊下を歩くうちに、自分が何階に居るのか分からなくなってしまうのだ。

私も何度も迷った。来客の「すてきなオフィスですね」という褒め言葉に、ケンはよく、"Three people have been still missing.(3人の社員が、依然として行方不明なんです)"と、冗談を言っていた。

繁栄の恩恵に浴したのはメイナードだけではなかった。1980年代後半は、DECの最盛期で、オフィスや工場はマサチューセッツ州の環状128号線と環状495号線に挟まれた、西北部の扇形の中の各所にあった。

さらには、北に隣接したニューハンプシャー州の各地、遠くはコロラド州コロラドスプリングス(磁気ディスク部門)やニューメキシコ州アルバカーキ(端末部門)、さらには、国境を越えたカナダのカナタ(PDP-11のボード版製品LSI11部門)などに広がっていた。

特に128号線は、128が2の7乗ということもあり「ハイテク・ロード」と呼ばれ、デュカキス知事のもと、「マサチューセッツの奇跡」と呼ばれる繁栄の80年代を謳歌(おうか)していた。

コンピューター産業の中心はシリコンバレーへ

それも、DECの凋落とともに消え去り、コンピューター産業の中心は、シリコンバレーなど米国西海岸に移っていくことになるのである。

私が借り上げてもらった社宅は、たまたま、ケンの家と同じリンカーンという、メイナードから5マイル(約8キロメートル)ほどボストン寄りの古い町にあった。ケンの家からも歩いてすぐのところだったので、息子がカブスカウトの仲間とハロウィーンの夜に"Trick or Treat"とケンの家に押しかけた。ケンは、1セント硬貨がいっぱいのバケツを2つ持って現れ、少年たちの各人に「1回で握れる限りの硬貨を、持って帰ってよろしい」と言ったらしい。

米DECが1960年に開発した最初のコンピューター、PDP-1の製造風景(DEC公表資料より)

質素だったオルセン氏の暮らし

帰ってきた息子が私に尋ねた。「父ちゃんの会社は、ほんとに大丈夫か?」「なぜだ?」「社長の家は小さいし、服はよれよれだし、スニーカーのメーカーも聞いたことがない上に、ボロボロだった」。

ケンは、その質素な暮らしぶりでも人々の尊敬を集めていた。

ケンは、DECの顧客だった米フォード・モーターに頼まれて、そのボードメンバー(取締役)を務めていた。フォードはボードメンバーに乗用車を支給していた。欲しい車種をきかれて、ケンは「ピント」という小型車を答えた。「それは、あまりにも……」ということで、フォードが頼み込んでやっとケンが受け入れたのは、「トーラス」という中型だったが、それも文字通りの大衆車であった。

ケンはその車を自分で運転して通勤していた。自動車通勤が一般的な米国の会社の駐車場は広大である。ケンは、社長専用駐車場を作るという周囲の提案を蹴って、遅く出社したときは、オフィスから遠く離れているため空いている駐車場の端に止めて長い距離を歩いていた。ケンのオフィスの裏手にひっそりと専用駐車場が設けられたのは、ケンがひざを痛めた80年代末になってからであった。

パソコンやマックの技術を評価せず

ケンがUNIXの評価を誤ったことは、前回述べた。もう一つの誤りは、パソコン(PC)を評価しなかったことだ。ケンがこう言うのを何度も通訳した。「IBM-PCなんかいらない。私の秘書は、ワープロも表計算も、VAXにつながったVT100端末で、何の支障もなくこなしている」。

しかし、ケンの眼に映るべきだったのは、IBM-PCではなく、米アップルのLisaやMacintosh(Mac)であった。ビットマップディスプレーとマウスを備え、画面上に「ウィンドウ」が開くこれらのアップル製品こそが、DECが開発したPDP-10(DECsystem10、DECSYSTEM20)が、DARPAnet上でとっくの昔に実現していたもののPC版であった。

DEC自身が作った最初のコンピューター、PDP-1こそ、最初のPCとでもいうべき操作性を備えていたにもかかわらず、ケンはPCの将来性を見抜けなかった。やっとPCビジネスへの参入を承認した時も、MS-DOSベースでなく、PDP-11の上の最も簡易な基本ソフト(OS)だったRT-11ベースであることにこだわった。

「Professionalシリーズ」と名付けられた、その名にひとりよがりの思いが込められたDECのPCは、全く売れなかった。PCはコンピューターのプロが使うものではなかったからである。

凋落を招いた「NIH症候群」と「猿罠」

これらのケン(ひいてはDEC)の失敗の本質は、いわゆる"Not Invented Here syndrome(NIH症候群)"と呼ばれる技術志向の強い会社に特有のものである。

つまり、自社(Here)の技術を過信するあまり、他社(Not Here)で生み出された(Invented)技術やアイデアや製品を、評価したがらない傾向のことである。

また、いわゆる"Monkey Trap(猿罠=さるわな)"に捕まったともいえる。「猿罠」とは、猿の手がやっと出し入れできる小さな口の入れ物にエサを入れておき、猿が手を入れて中のエサを握ると手が出せなくなり、猿が捕まるという仕掛けのことである。猿が、握っているエサを放せば、手が抜けて逃げられるのだが、猿はせっかく手に入れたエサを放す事ができず、捕まってしまうのだ。

PDP/VAX/VMSという成功体験をいつまでも握りしめて放すことができず、UNIXやPCといった、"Not Invented Here"の技術やアイデアを評価できなかったのは、"Monkey Trap(猿罠)"に捕まったというわけである。

ここで、さらに悔しいのは、UNIXやPCは、DECにとって、決して"Not Invented Here"の技術やアイデアではなかったということである。これらは、少なくともDECマシンの上や周辺で、"Invented"された技術やアイデアだった。

DECの成功と失敗、人ごとではない日本

翻って日本はどうであろうか。戦後65年の成功したやり方を、もはや通用しないにもかかわらず、どうしても手放せない(変えられない)。外国(Not Here)、特に米国(Never Here)で、Inventedされたものは、何でもとりあえず否定したくなる傾向。「日本標準(Invented Here)を国際標準に」という相も変わらぬ戦略――。

「NIH症候群」とか「猿罠」という言葉がすでにあったにもかかわらず、「DECはなぜ、絵に描いたような失敗を繰り返したのであろうか」と、人ごとのように語れないのが、我が国、我が国の会社、我が国民ではないだろうか。などと断定的に僭越(せんえつ)極まりないことを申し述べて、今回を終わらせていただく。

=敬称略

(「村上憲郎のグローバル羅針盤」は原則、火曜日に掲載します)

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