「UNIXはガマの油」 自社OS技術に自信
DECをめぐる伝説と夢物語(中)
村上憲郎のグローバル羅針盤(11)
前回に引き続き、米DEC(Digital Equipment Corporation)をめぐる伝説と夢物語をお届けする。伝説と夢物語ということは、なかには今となっては真偽の確かめようもないこともあるので、眉に唾をたっぷりつけたうえで、お楽しみいただきたい。
PDP-11、VAXの成功で世界2位の電算機会社へ
DECが開発したコンピューターのなかで最も成功したのは、語長16ビットのPDP-11シリーズと、その32ビット拡張版であるVAX11(Virtual Address eXtension of pdp-11)シリーズである。1970年代から80年代にかけてそれこそ一世を風靡(ふうび)し、DECを世界第2位のコンピューター会社へと押し上げる原動力となった。

PDP-11とVAXの開発を指揮したのが、あの伝説のコンピューター・アーキテクト、ゴードン・ベル(現在は、マイクロソフト在籍)である。
ゴードン・ベルが来日した1982年、VAXユーザーであった東京大学大型電子計算機センターに連れていった。同計算機センターの主要マシンは、日立製のIBMコンパチブル(互換性のある)の超大型メーンフレームであった。
当時、国立大学の計算機センターには、国策として日本製の大型のメーンフレームが割り当てられていた。例えば、「京都大学には、富士通製のIBMコンパチブルの超大型メーンフレーム」といった具合にである。
東大・大型電子計算機センターにあった日立製のIBMコンパチブルの超大型メーンフレームを見るなり、左右違った靴下を履いてきたゴードン・ベルが、私に尋ねた。
「ノリオ! プロフェッサー石田(当時、東京大学大型電子計算機センター所長であった、故石田晴久教授のこと)は、こんなマシンで、どうやって、コンピューターサイエンスを教えているんだ?」
私は答えた。「できないから、VAXを買ってくれたんだよ」。ベルはうれしそうに破顔一笑して叫んだ。"It quite makes sense!(それは、極めて理にかなっとる!)"
実際、PDP-11もVAX11も、日本の大学の情報工学科やコンピューターメーカーの研究所向けに、飛ぶように売れていた。
社内外で様々なOSが誕生
PDP-11やVAX11のシリーズ向けには、DECの社内外で様々なOS(基本ソフト)が開発された。それらのうち外部で開発されたOSが、DECのビジネスの帰趨(きすう)を徐々に支配していくことになった。

まず、AT&Tベル研究所がPDP-11/20の上で稼働するUNIX(C言語を含む)を開発した。あえて断っておくが、移植されたのではない、世界で最初のUNIXが生まれたのである。時期を特定するのは難しいが、「OS全体がC言語で書き直された1973年である」という通説に従っておく。
UNIX自身は、その後、様々な曲折を経るわけだが、その経緯については、例によってググッていただくとして、本稿で触れなければならないのは、UNIXの歴史の中でも重要な位置を占める、BSD(Berkeley Software Distribution)UNIXである。
名前の通り、米カリフォルニア大学バークレイ校で、VAX上に開発された。「VAX上で」ということは、オリジナルのUNIXが16ビット版だったのに対して、32ビット版であるとともに、仮想メモリーをサポートしていた。
BSD UNIXで特筆しておかねばならないのは、前回紹介したDARPA(Defence Advenced Research Project Agency=米国防高等研究計画局)の資金援助を受け、DARPAnetのプロトコル(通信手順)であるTCP/IPが実装されたことである。
これによってBSD UNIXは、DARPAnetがインターネットへ発展していく上で重要な役割を果たすことになる。

オルセン社長は「UNIX嫌い」
BSD UNIXの開発の中心人物であったビル・ジョイとスコット・マクネリーがワークステーションのサン・マイクロ・システムズ(SUN)を創業した後、DECの共同創業者で当時社長だったケン・オルセンに相談に来た。
BSD UNIXベースのSUNワークステーションを製造するのにあたって、そのハードとしてVAXアーキテクチャーのライセンスを求めてきたといわれる。
ケンは即座にそれを拒絶したという。なぜか。
ケンは、UNIXを全く評価していなかったからである。
もちろん、それには理由があった。VAXのDEC標準OSだったVMSは、UNIXに比べて全く遜色のない優れた出来だったからである。
よくいわれるように、歴史に「もしも」はないが、SUNワークステーションが、モトローラ68000やSPARCではなく、VAXベースとなっていたとしたら、その後のコンピューターの業界図も相当、今とは変わったものになっていたと思われる。
VMSを開発したのは、これも伝説のOSエンジニアである、デヴィッド・カトラー(現在、マイクロソフトに在籍)である。彼はその前にPDP-11上で最も成功したDEC標準OSであるRSX-11Mを開発している。そして、1988年にマイクロソフトに移籍した後、ウィンドウズNT(Windows New Technology)の開発に携わることになる。
VMSに酷似しているといわれるウィンドウズNTの頭文字WNTが、VMSとアルファベットで1文字ずつずれているというのは、単なる偶然であろうか。

彼はその後も、マイクロソフトの主要なOS(ウィンドウズXP、同Vistaなど)の開発に関与した。1973年のRSX-11Mから、最近のウィンドウズまで、40年近く、世界の多くの人々が、カトラーが開発に関わったOSの上で仕事をしてきたことになる。
彼もまた、ケン・オルセンと同じく、UNIXを評価していなかった。あの素晴らしいVMSを開発した直接の当事者だったわけだから、ケン以上に当然の感覚だったのだろう。
ケンのUNIX嫌いは私も目撃している。1980年代後半のある日、アトランタで通信業界のイベントが行われた時に、ボストンからケンとDEC社用機でアトランタに飛んだ。
日本でのDECの一大ユーザーだったNTTの代表団も来るということで、それにアテンドする私も他の通信業界担当者と共に同乗を許されたのである。
自社開発OSとUNIXでせめぎ合い
UNIXはAT&Tで開発されたこともあり、通信業界には同OSの支持者が多かった。このためDECの通信業界担当者は、SUNワークステーションに対抗すべく、VMSでなくBSD UNIXを搭載したVAXでSUNと熾烈(しれつ)な競争を繰り広げていた。そして彼らは、キーノートスピーチを行う予定だったケンに、「絶対にUNIXを悪くいわないように」と説得していた。
説得されたかのように黙って話を聴いていたケンだったが、次の日のキーノートでは、"UNIX is snake oil(「UNIXはガマの油だ=つまり、ふれこみこそ万能薬というが、本当は、いかさま薬のようなものという意味)」)"と言い放ったのである。
私は、尊敬する経営者を一人あげろと言われると、何の躊躇(ちゅうちょ)もなく「ケン・オルセン」と答える。本年2月、84歳でその生涯を閉じたその人のことについては、次回とさせていただく。
=敬称略
(「村上憲郎のグローバル羅針盤」は原則、火曜日に掲載します)