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ジョブズもゲイツも「ウィンドウ」をまねた?

DECをめぐる伝説と夢物語(上)

村上憲郎のグローバル羅針盤(10)

人工知能について書いたのなら米国のコンピューターメーカー、DEC(Digital Equipment Corporation)について書かないわけにいかない。人工知能に代表されるコンピューターサイエンスは、ほぼすべて、DECに流れ込み、そして、その後DECから流れ出たからだ。しかし、DECについては、既に多くのことが書かれ、語られており、それこそググッていただく方が、詳細な情報が手に入る。

村上憲郎(むらかみ・のりお) 元グーグル日本法人社長兼米本社副社長 1947年大分県佐伯市生まれ。70年京都大工学部卒。日立電子、日本ディジタル・イクイップメント(DEC)をへて、米インフォミックス、ノーザンテレコムの日本法人社長などを歴任。2003年から08年までグーグル日本社長を務める。

ここでは、DECについて最小限触れなければならない事実と、あまり書かれたことのない、つまり、真偽の確かでない噂話というか、いわば「伝説」の幾つか書かせてもらうことにする。

それらは、私がDECに勤めた1978年から94年の17年間に耳にしたことではあるが、今となっては、その真偽を確かめようもない。

ということで、今回は、読者の皆様は、眉にタップリと唾を塗った上で、お読みいただきたい。旧き良き時代のコンピューター夢物語として、「そういうこともあったかもね」と気楽に楽しんでいただければと思う。

DECは、1958年にMIT(マサチューセッツ工科大学)リンカーンラボに勤めていたケン・オルセンが創業した、80年代にはIBMに次ぐ世界第2位となったコンピューター会社である。しかし、その社名Digital Equipment Corporationに現れているように、ケンはコンピューター会社としては投資家の資金を獲得できず、トランジスターを使ったDigital回路モジュールを製造販売する会社として創業した。

名機「PDPシリーズ」、ハッカー文化を生む

後に、集積回路に取って代わられることになるNANDゲートやフリップフロップ回路をトランジスターで構成したモジュールを実際に製造販売したのである。そのようにして、会社を運営しながら、最初のコンピューター製品PDP-1を60年に完成させる。

その後、名機の代名詞となるPDPシリーズの名前も、投資家の追加投資を促すためここにもコンピューターという言葉は登場しない。PDPとは、Programmable Data Processorの略であるとされた。もちろん、読む人が読めば、それこそ「ノイマン型デジタルコンピューター」の別名であることが、分かるわけではある。

PDP-1は、今から見ると、パソコンの原型ということもできる。モニターとジョイステックを備え、最初のコンピュータゲームと呼ばれる「スペース・ウォー」が搭載されていた。

搭載といっても、プログラムは、紙テープとして付属していた。PDP-1は、結局50台が製造され、米国のハッカー第一世代を生み出すこととなる。「スペース・ウォー」もMITに寄贈された2号機上に、MITの学生が作り、後に、PDP-1に付属して出荷されることになったものである。

PDPシリーズについては、PDP-8とPDP-10、そして、PDP-11についてのみの紹介に留める。なぜならば、この3機種は、DECを語る上で避けて通るわけに行かないマシンであるからである。

「人工知能」から「インターネット」へ

PDP-8は、DECがコンピューター会社としての地位を確立する礎となったDEC初期の成功したマシンである。1965年に発売され、その後ファミリー化され30万台を超える販売数を記録したとされる。当時のコンピューターの販売総数としては、破格であった。

語長は、12ビットであるが、その後の多くのコンピューターの設計に影響を与えた。私が勤めた日立電子が製造した日本のミニコンピューターのベストセラーHAITAC-10も、語長こそ16になってはいたが、PDP-8のほぼ完全なコピーであった。

日本の電卓メーカであったビジコン社が、そのアイディアをインテルに持込み、今日のワンチップCPU(中央演算処理装置)の嚆矢(こうし)となったIntel4004もPDP-8から、大きな影響を受けている。

1968年に登場したPDP-10は、PDP-1と同じ、18ビットマシンであった。詳しくは語らないが、18ビットの語長は、LISP(LISt Processing)言語を実行するのに最適の語長であったため選ばれたと言われている。

LISPは、人工知能研究に最も使われていた言語であったため、現在のインターネットの始まりであるDARPAnet(Defence Advanced Research Project Agency=国防高等研究計画局=network)のノードマシンとして使われることと成った。つまり、DARPAは、人工知能の開発をその目的の一つとしていたのである。

従って、私が頻繁に訪れたMIT、スタンフォード大学、カーネギーメロン大学(CMU)といった人工知能研究の聖地で使われていたPDP-10(後継機であったDECSystem10、DECSYSTEM20)は、DARPAnetのノードマシンでもあったが、すべて米国のArmy(陸軍)、Navy(海軍)、あるいはAir Force(空軍)からの寄贈であることが、公然と明示してあった。

唯一の例外は、ゼロックスのPARC(Palo Alto Research Center)であった。当時、DECとPARCの関係がギクシャクしていて、PARCの経営陣は、研究陣がPDP-10を購入することを許さなかったため、PARC研究陣は、PDP-10を自作したのである。

DEC社員の身分を隠し、スタンフォード大学CSLI(Center for the Study of Language and Information)の教授に連れられて訪問させてもらった私は、そのマシンの実物を見ている。しかし、DECもそのマシンの存在は知っていたが、何の問題にもしていなかった。

国家戦略として先見性を欠いていた日本

DARPAの人工知能研究に見るように、この連載の第8回で紹介した、日本が1980年代に人工知能型コンピューターを開発しようとした国家プロジェクト「第5世代コンピュータプロジェクト」の狙いは、間違ってはいなかった。

しかし、DARPAは、一方で、DARPAnetという形で、今日のインターネットとなるコンピューターネットワークを開発していた。こうした動きに対して、日本が国家戦略として注目度を少し欠いていたという指摘は、後知恵ではあるが、一理あると言わねばなるまい。

当時、筆者は、DARPAnetの中枢を支え、最初のLISPマシンでパソコンでもあったPDP-1の製造元であるDECに在籍していた。そして、1980年当時、すでに、ビットマップディスプレイの上に、MIT、スタンフォード、CMUの別々のPDP-10上のプロセスが、それぞれのWindowとして表示されるのを、マウスを使って操作していたのである。

しかし、日本の国家戦略が先見性を欠いていたのと同様に、個人的にもその技術を十全にビジネスにできなかったという自責の念を覚えざるを得ない。

その技術をフルに生かしてビジネスにしたのは、スティーブ・ジョブズとビル・ゲイツであった。

1990年代のどこかで、二人が互いに、「ウィンドウを盗んだ」と論争したことがあった時、私は「二人共、盗んだんじゃあないか」と密かに思いつつ、既に離れていたDECの末日を感慨深く眺めていたのを思い出す。

DECの末日に至る忸怩(じくじ)たる物語は、次回とさせていただく。=敬称略

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