香港の聴衆に響いた日本復興への思い 日本フィル、震災にひるまず公演決行
首都圏でも電力事情悪化、交通の混乱を考慮して多くの演奏会、舞台芸術が公演中止に追い込まれたが、日本フィルハーモニー交響楽団は大震災当日の3月11日と翌12日、サントリーホールの定期演奏会を会場の安全を確認した上で行った。16~20日には予定通り香港の第49回香港芸術節(アーツ・フェスティバル)へ出かけ、日本再生への誓いを音楽で伝えた。

筆者にとって日本フィルは、大学で卒論執筆のテーマとした思い出のオーケストラだ。創立指揮者の渡邉暁雄(1919~90年)の優雅な指揮姿を小学生の時にテレビでみて音楽にあこがれ「いつか日本フィルを聴きたい」と思って育った。それだけに72年、当時のスポンサーから解散を告げられ、組合派の日本フィル、非組合派の新日本フィルに分裂した際は心が痛んだ。弦は集団労働だから組合派、管は個人プレーだから非組合派が多く、長く日本フィルの管、新日本フィルの弦がそれぞれ弱かったのも分裂の後遺症だろう。
卒業から30年。日本フィルはロシアの名匠アレクサンドル・ラザレフを首席指揮者、フィンランドの新進ピエタリ・インキネンを首席客演指揮者に迎え、演奏力を目覚ましく上げた。懸案の金管楽器にも丸山勉(ホルン)、オッタビアーノ・クリストーフォリ(トランペット)、藤原功次郎(トロンボーン)ら優秀な若手が次々入り、輝かしい響きが戻ってきた。11日夜、日本フィル専務理事の平井俊邦は、困難を乗り越えてホールへ集まった聴衆の姿に打たれ「すべて続行でいく」と腹をくくり、香港公演への出発に踏み切った。
香港ではまず17日、3つの室内楽チームに分かれ学校での普及活動を行い、18日に青少年のための演奏会を屯門大会堂で、19日に幸田浩子(ソプラノ)を独唱に迎えた一般演奏会を香港大会堂で開いた。日本フィル理事長の肩書を持つ千葉商科大学学長の島田晴雄が犠牲者への黙とうを促した後、「大震災当日も演奏をやめなかった。日本は必ず復興する。どうか再び、訪れてほしい」とあいさつすると、客席から大きな拍手と声援がわき起こった。
「私たちはみな、大事な人々を日本に置いて香港へ来た」。ソロ・コンサートマスターの扇谷泰明が漏らした。ラザレフやイタリア人のクリストーフォリには、福島原子力発電所の事故を知った本国の家族から「一刻も早く帰国してほしい」との電話が頻繁に入っていた。屯門での演奏会冒頭、全員が緊張の余り、なかなか上手に機能しなかったが、ラザレフの巧みなリードにより、次第に豊かな音色と音量を取り戻した。日本フィルには解散事件後の「闘争」の名残として、最後にコンサートマスターの指示で全員が客席に向かい、一礼する伝統がある。香港の中学生たちの前でも同じく頭を下げた瞬間、驚くほど熱い歓声が爆発した。ラザレフは「神に感謝しよう」と涙ぐんだ。
19日の本公演後半、メーンの交響曲はプロコフィエフの第7番。1952年、モスクワで「ソビエトの青年にささげる」目的で初演されたため「青春」の副題を持つ。その終結部は静かに閉じるオリジナル版、「もっと明るくすべきだ」とする為政者の意見を入れ強奏に書き換えた改訂版の2つが存在する。ラザレフは東京でと同じように、オリジナル版で本番を終え、アンコールで改訂版の結尾を披露した。「サウスチャイナ・モーニングポスト」紙の編集委員、オリバー・チョウ氏は「過酷な状況を乗り越え香港へ来た上、大人の聴き手にも2版を実際に聴き比べさせる『教育』機会を授ける余裕までみせ、感激した」と語る。
短いツアーの間にラザレフと楽員の連帯感は深まり、日本フィルの演奏も「ひと皮むけた」気がする。専務理事の平井は旧三菱銀行の出身で、香港支店長も務めた縁で芸術節からの招待をとりつけた。「どんな状況下でも演奏し続ける、オーケストラの社会的使命を痛感した1週間だった」と振り返る。楽員たちが次第に生気を取り戻す現場に遭遇した前後、私の脳裏では英国のロックバンド「クイーン」が今から20年前にリリースした楽曲、「ショウ・マスト・ゴー・オン」が通奏低音のように鳴っていた。余命いくばくもないフレディ・マーキュリーが、残った声を振り絞るように歌う。「ショウは続けなければならない、そう、続けなければ……」と。音楽家の人生は時に過酷だが、素晴らしい歌声や演奏は長く人々の心に生き、勇気を与え続ける。東日本大震災の被災地が日常を取り戻し、音楽が人々の希望となる日が1日も早く訪れることを祈り、とりあえず連載を終える。
(編集委員 池田卓夫)
(おわり)
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