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三菱電機を「優等生」にした12年前のトップ人事

産業部編集委員 安西巧

企業イメージを失墜させ、社員の士気を著しく損なうとされるトップ人事を巡る混乱。だが、三菱電機が総合電機の「万年3位」から浮上するきっかけをつかんだのは12年前の社長辞任劇だった。「リストラ優等生」の称号が定着してきたとはいえ、経営基盤が常に盤石だった訳ではない三菱電機の12年間は、混乱を奇貨とし、人心一新によって業績回復に結びつけることができる可能性を示唆している。

「来年の任期満了まで続投するのが自分の責務と思ってきたが、大きな赤字と無配の結果責任を逃れられなくなった」。1998年3月25日、辞任を発表した記者会見で北岡隆社長(現特別顧問)は男泣きに泣いた。

就任年退任年社長名
1970年1980年進藤貞和
1980年1985年片山仁八郎
1985年1992年志岐守哉
1992年1998年北岡隆
1998年2002年谷口一郎
2002年2006年野間口有
2006年2010年下村節宏
2010年
(4月就任予定)
山西健一郎

このとき、北岡氏は社長在任丸6年。92年の就任時には「総合電機で半導体と情報通信をよく理解している初めての社長」と社内外で好意的な評価が多かった。重電分野の人材が歴代重用され、時代の変化への対応力が鈍い"ぬるま湯体質"を一新したいと、前任社長の志岐守哉氏が後任に抜てきしたのが、半導体担当の副社長を務めていた北岡氏だった。

三菱電機は三菱自動車と同じように、三菱重工業から枝分かれした会社だ。1921年に三菱造船(三菱重工業の前身)電機製作所を母体に設立された。こんな出生の経緯もあり、三菱重工の発電プラントに組み込まれる発電機をはじめ重電製品が長く三菱電機の主力事業になっていた。

改革の期待を担って社長に就任した北岡氏は、こうした"重工依存体質"からの脱却を目指した。半導体やコンピューター、映像といった重電以外の部門強化を掲げ、さらに厚さ18ミリという当時世界最薄のノート型パソコン「ペディオン」の発売(実売価格50万円台)など、2010年を視点に置く「ビジョン21」と名づけた新規事業開発プロジェクトを推進した。

北岡体制は当初順調な滑り出しに見えたものの、空前のDRAM好況をにらんだ巨額投資でつまずいた。後に北岡氏が「欲ボケだった」と反省する96年3月期にスタートした総額1000億円以上の半導体投資が落とし穴になった。投資が加速してまもなくDRAMは不況に転じて価格が暴落。三菱電機は97年3月期と98年3月期の2年間に半導体事業で合計1500億円を超える赤字を出した。

最も理解が深いはずの半導体事業での失敗は北岡氏にとって痛恨の極みだったろう。巨額の赤字が表面化すると「DRAMから撤退すべき」と従来方針を180度転換するような迷走発言も飛び出し、社長の求心力は一気に低下。折から三菱グループを巻き込んだ総会屋への利益供与事件が発覚して三菱電機も総務部幹部が逮捕・起訴され、トップの経営責任を問う声も高まっていた。

98年の年明け以降、三菱電機の連結純損益が1000億円を超える赤字に転落することが不可避となっていったが、逆風が強まっても北岡氏は「任期途中では絶対に辞めない」と続投宣言を繰り返していた。だが、ほとんどの役員が社長続投反対に回ったほか、三菱電機の監査役を務めていた元三菱銀行(現在の三菱東京UFJ銀行)頭取の伊夫伎一雄氏をはじめ三菱グループの長老たちの間からも「続投に疑問」の声が上がるようになった。

最後は三菱系有力企業の社長会である「金曜会」メンバーからの取材を元に「北岡三菱電機社長退任」との新聞報道があり、北岡氏は万事休して詰め腹を切らされる形になった。その新聞報道の翌日に開かれたのが上記の「涙の記者会見」である。北岡氏は「会長就任」を希望したが、院政を警戒した長老たちに拒否され、代わりに取締役相談役のポストを与えられたとされている。

 事実上は解任とも解釈できる12年前の三菱電機の"政変"。ガバナンス(統治)上の大きな問題を孕(はら)み、会社の先行きが危ぶまれたが、関係者の懸念とは裏腹にこれ以後、三菱電機の経営は安定に向かう。

記者会見で握手する三菱電機次期社長の山西上席常務執行役(右)と下村社長(2月18日、東京都千代田区)

谷口一郎氏、野間口有氏、下村節宏氏の歴代社長は任期4年をきちんと守り、後任にバトンを渡した。4月1日には下村氏に代わって山西健一郎上席常務執行役が社長に昇格する。

谷口氏から山西氏まで、北岡氏の後任の4人をみると、谷口氏と野間口氏はともに京都大学理学部出身(野間口氏は修士課程修了)の研究者、下村氏と山西氏はいずれも京大工学部卒のエンジニアで下村氏は社内キャリアの大半を自動車機器事業で送り、山西氏は生産技術畑が長かった。要するに4人とも「社長候補らしくない」傍流の出身といえる。

1970年代から90年代にかけて三菱電機の社長を務めた進藤貞和氏、片山仁八郎氏、志岐氏の3人は長崎製作所で同じ釜の飯を食った仲といわれ、重電畑の内部に社長が次々に輩出する「長崎閥」が出来上がっていた。自ら「側近や腹心の部下は作らない」と広言していた北岡氏が社長に就任して以降、こうした社内閥は影を潜め、社長候補の出身部門にこだわらない新しい伝統が根づいてきたように見える。

北岡氏の後任の谷口氏は「脱重工」路線を受け継ぎ、携帯電話事業の強化なども進めたが、2000年のIT(情報技術)バブル崩壊で大打撃を受け、2002年3月期に779億円、野間口氏にバトンタッチした03年3月期にも118億円のそれぞれ連結純損失を計上した。

ただ、谷口氏は北岡氏辞任後の社内の混乱を収拾し、関連会社の統廃合やグループ人員の削減などを着々と進めた。口癖は「利益のボラティリティー(変動率)の高さを克服し、サスティナブル(持続的)な成長を実現する」。半導体やパソコンといったボラティリティーの高い事業の比率を下げ、FA(ファクトリー・オートメーション)機器や自動車用電装品、昇降機(エレベーター)など一見地味な事業の収益確保に力を注いだ。

この「構造改革路線」は谷口氏以後の社長にしっかり引き継がれた。収益の見込めない事業には思い切ったメスを入れ、撤退も厭(いと)わない。パソコン生産撤退(1999年)、DRAM事業のエルピーダメモリへの売却(2003年)、システムLSI事業を切り離し日立製作所と共同出資のルネサステクノロジに統合(同)、携帯電話事業撤退(08年)――と、三菱電機の「引き算」経営は定評になった。

2003年には東芝の株価を抜き、05年には日立の株価も上回った。現在は時価総額でも三菱電機=1兆8180億円、日立=1兆5670億円、東芝=2兆0550億円(3月29日現在)と日立を抜き、東芝を追っている状況。北岡氏が夢見た「万年3位」からの脱出は実現したのだ。

23日には200億円の赤字としていた2010年3月期の連結純損益が一転250億円の黒字となる見通しを発表。三菱電機は電機大手では唯一、リーマン・ショック後も赤字を出さずに乗り切った会社になる。

人事を巡るトラブル例は現在もある。三菱電機のような復活劇を再現できるかどうかは、歴代社長が任期を守り、後継者に確実に権力を委譲する仕組みを構築できるかどうかに懸かっている。

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