1970~80年代、「SONY」とともに世界で最も輝いていた日本発のブランド「SEIKO」。内外で抜群の知名度を持ち、セイコーエプソンのような世界的な「ものづくり企業」の生みの親でありながら、なぜ度重なる危機を克服できないのか。転落の道筋をたどると、「『お店』重視、『工場』軽視」の伝統の弊害が浮かび上がる。
成功の記憶はさほど古くはない。64年の東京五輪でセイコーグループは公式計時を担当し、世界に「SEIKO」ブランドをアピールした。さらに69年に世界初のクオーツ(水晶)式腕時計「セイコーアストロン」を開発・発売して市場を席巻、機械式で絶対的な優位を保っていたスイスの時計産業をグローバル市場の覇者の座から瞬く間に追い落とした。
だが、その後の凋落(ちょうらく)も早かった。高級化路線の失敗などから中核会社の服部時計店(服部セイコー、セイコーと社名を変え、現在はセイコーホールディングス=セイコーHD)は80年代末以降何度も債務超過寸前に追い込まれ、ついに先月末、創業一族が絡む役員解任劇でブランド・イメージが一段と失墜したのは周知の通り。成長から転落への浮沈はわずか40年余りの間の出来事だ。
セイコーの創業は1877年(明治10年)。古物商の息子だった服部金太郎氏(1860~1934年)が17歳の若さで東京・京橋に「服部時計修繕所」を開設したのが始まりだ。4年後に「服部時計店」に衣替えし、輸入時計の販売にも参入。1887年には銀座4丁目に店を移し、ここが現在も和光本店として小売部門の本拠となっている。
金太郎氏が日本の産業史に名をとどめたのは、舶来時計の販売業の成功に飽き足らず、製造業に手を広げ、国産時計の開発にまい進したからである。1892年に東京・墨田にあった旧ガラス工場を買い取り、製造会社の「精工舎」を設立。天才技師といわれた吉川鶴彦氏(1864~1945年)を技師長として迎え、柱時計の生産を始めた。
以後、国産初の懐中時計(1895年)、国産初の目覚まし時計(1899年)、国産初の腕時計(1913年)と名実ともに日本を代表する時計メーカーとして実績を重ね、1924年に初めて「SEIKO」ブランドをつけた腕時計を発売した。
金太郎氏が1934年に亡くなると、長男の玄三氏が後を継ぎ、服部時計店の2代目社長に就任。3年後に成長著しい腕時計の製造部門を「第二精工舎」(後のセイコー電子工業、現在のセイコーインスツル=SII)として分離、東京・亀戸に工場を置いた。
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2012年2月7日付 (2/6)
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