
岩本は帝都銀行の仲介でビキューの大三郎に会うことにまったく乗り気ではなかった。
それにはいくつか理由があった。
一つは、この種のトップ営業は、実はなんの効果もないことがほとんどだったからである。
1960年代から70年代にかけて企業がコンピューターシステムを導入し始めたころは、どのITベンダー(IT構築を支援する会社)をパートナーにするかは重要な経営テーマだった。しかし、現代はもちろんこの当時(1984年)でもすでに、ITベンダーの選定は経営テーマとしての重要性が低くなっていた。
したがって、何とか顧客企業のトップと武蔵電気の経営幹部氏との面談に持ち込んだところで、トップ同士の“高級雑談”で終わってしまうことが常だったのである。
高級雑談の最後の最後に肝心の営業案件が極めて不自然な形で話題になり、経営幹部氏の「よろしく」に対して顧客企業トップの「こちらこそ、よろしく」で面談は終わるのである。
この高級雑談と「よろしく」のために費やされる営業現場の手間は半端なものではなかった。
まず、経営幹部氏用の簡潔な営業レポートの作成。レポートは簡潔でも、そのバックデータとして膨大な裏付け資料の作成が暗黙のうちに求められる。
さらに、武蔵ぐらいの超大企業になると経営幹部氏と営業現場の責任者との間に準経営幹部氏が介在することが多い。現場責任者としてはまず、上司である準経営幹部氏にその案件の報告をする。この手続きを踏んだうえで、準経営幹部氏が経営幹部氏に、たどたどしい口調で案件の説明をする。
<第1章の主な登場人物>
山根勇二 化粧品会社大手ビキューのCIO(情報システム責任者)。48歳の最年少執行役員
清水大三郎 ビキューの創業者で代表取締役会長。87歳
清水健太郎 ビキュー社長。清水大三郎の一人息子
山根美紀 山根勇二の妻。コンピューターメーカー大手、武蔵電気の美人キャリアウーマン
山根杏子 山根勇二と美紀の娘。15歳
郷田耕造 ビキュー相談役。情報システム担当役員だったこともある。74歳
只野誠 ビキュー入社3年目から一貫して情報システム部に在籍。無口だが優秀な「システム職人」
岩本大樹 武蔵電気の専務。山根勇二とは20年来の付き合い
瀧本俊二 武蔵電気の部長。ある“事件”をきっかけに、山根勇二に頭が上がらない
岩本峰子 岩本大樹の母親
真樹時子 マキ化粧品店の経営者。元・銀座のママ
人間誰しも知らないことを説明するのは不安だから、準経営幹部氏は「これはどうなってる?」「あれはどうなってる?」と、絶対に聞かれないような質問まで現場責任者に浴びせかける。その都度、現場担当者は資料作りに追われる。
多忙な営業現場からしたら、実際には高級雑談に加わる予定もない準経営幹部氏から、あーでもない、こーでもないと言われて、資料作成に追われ、この時点で、気が狂いそうになる。
しかも、高級雑談と「よろしく」の後にも、この種の仕事は続く。
その後どうなったかについての、経営幹部氏への報告業務である。
営業に暗い経営幹部氏などになると、顧客企業トップも「こちらこそよろしく」と言ったのだから、自分がトップ営業したおかげで受注は確実になったと思いこんでいたりする。そんなおめでたい経営幹部氏に当たると状況は悲劇より喜劇の様相を呈することになる。
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