日本経済新聞社

記事利用について
印刷 印刷

家康、元就の長寿を支えた食生活の秘密 戦国武将の長寿食(1)

2012/9/26 6:30
ニュースソース
日本経済新聞 電子版

 国盗り合戦が繰り広げられた戦国時代に、驚くべき長寿を全うした武将たちがいた。平均寿命がわずか37~38歳であった当時、70歳を超えて生きることはたやすいことではなかった。長寿で知られた武将たちの息の長い人生と健康の秘密は、日々の食へのこだわりにあった。

徳川家康(75歳)×麦飯・豆味噌】
■生涯 麦飯が主食

 「長命こそ勝ち残りの源である」。常々、こう語っていた徳川家康の健康と長寿を支えていたのは、麦飯と豆味噌であった。天下を完全に掌握し、江戸幕府260余年の基礎を築けたのも、食生活に気を配り、晩年まで健康であったからにほかならない。三河の地方豪族、松平氏の嫡子として生まれた家康は、幼い頃から麦飯を主食にして育ち、生涯、その習慣を変えることはなかった。

家康の麦飯は、丸粒の大麦に胚芽や糠の残った半搗き米を混ぜたもの。ミネラルや食物繊維が豊富で、便通も良くした。この麦飯が、家康の長寿の源だったといわれている(この記事の写真:明石雄介)

家康の麦飯は、丸粒の大麦に胚芽や糠の残った半搗き米を混ぜたもの。ミネラルや食物繊維が豊富で、便通も良くした。この麦飯が、家康の長寿の源だったといわれている(この記事の写真:明石雄介)

 岡崎城にいた頃、家臣が気を利かせ、椀の底に白米飯を盛り、その上に麦飯をかぶせて出すと、家康は「汝らは、わしの心を察していない。戦国の世でわしが先頭に立って倹約すれば、戦費の節約になり下々の者をいたわることにもなるのだ」と激怒したエピソードが残るなど、質素倹約の精神からも麦飯を好んでいたという。

「麦にはビタミンB1やカルシウムなどが豊富に含まれます。さらに、家康の麦飯は麦と胚芽の残った半搗き米を混ぜたものなので数多く噛まなければならなかった。この咀嚼が脳や胃腸の働きを活性化させて、活力の源になったのです」(食文化史研究家、永山久夫さん)。

 また、家康は大豆100%の豆味噌も味噌汁にして好んで食べ、キジや鶴の焼き鳥など動物性たんぱく質も適度に取っていた。「豆味噌にはアルギニンという強壮効果のあるアミノ酸がたっぷり含まれています」(永山さん)。その効用か、家康は生涯で16人の子をつくり、最後の子をもうけたのは66歳のとき。精力に満ち、直系の子が多かったことが徳川幕府を長続きさせる要因にもなったのである。

 とくがわいえやす 1542~1616年。三河国(現愛知県)生まれ。幼少時代は織田家、今川家の人質として過ごす。桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれた後は、信長と同盟を組む。信長の死後は豊臣秀吉との対立が深まり、秀吉の死後、関ヶ原の戦いに勝利し天下を掌握。江戸幕府を開いた。

天海(108歳)×納豆汁・クコ飯】
■粗食が驚異的長寿の源

 徳川家康、秀忠、家光の3代に側近として仕え、家康の知恵袋といわれた天台宗の僧、天海。この高僧は、なんと江戸時代初期に108歳まで生きている。その驚くべき長寿の秘訣は、納豆汁、クコ飯などの粗食にあったと推測される。

 あるとき、家光が天海に長生きの秘訣を尋ねると、「長寿は粗食、正直、日湯、だらり、ときおり下風あそばされかし」と答えたという。粗食を重んじ、嘘をつかず、毎日入浴し、ストレスを避けて、時には放屁するのが長寿のためになる、という意味だ。

長寿には適度なたんぱく質も不可欠といわれ、納豆汁は、納豆と味噌の両方の大豆からたんばく質が摂取できる貴重な料理でもあった

長寿には適度なたんぱく質も不可欠といわれ、納豆汁は、納豆と味噌の両方の大豆からたんばく質が摂取できる貴重な料理でもあった

 会津に生まれ、比叡山延暦寺や奈良の興福寺などで修行を積み、比叡山が信長の焼き討ちに遭うと、甲斐の武田信玄に仕えるなど各地を巡った天海。こうした修行生活では粗食にならざるを得ず、その粗食こそが体に良いと、彼は身をもって悟ったのだ。そんな天海は、特に故郷、会津の郷土食でもある納豆をことさら好んだ。

 「納豆は、脳の老化を防ぐレシチンや、血中コレステロールの濃度を低下させるサポニンなどが含まれた長寿食。江戸時代初期まではご飯にかけるよりも、味噌

汁に入れて食べるのが一般的で、体調を崩した家康にも納豆汁を食べることを勧めています」(永山さん)。

天海が好んだクコ飯には、老化予防、免疫力強化、疲労回復などの効果があるとされる

天海が好んだクコ飯には、老化予防、免疫力強化、疲労回復などの効果があるとされる

 天海が納豆汁と一緒によく食べたのが、中国でも古くから薬用に用いられてきたクコの実を、白米と一緒に炊いたクコ飯であった。「クコには免疫力を高める薬効成分が豊富に含まれています。そのクコを常用していたので病気にかかりにくく、100歳を超える長生きができたといってもよいでしょう」(永山さん)。

 天海が家康の側近になったのは70歳を過ぎてからのこと。高齢にもかかわらず、江戸の都市計画の立案、日光東照宮や上野寛永寺の造営など、歴史的大事業に次々と采配を振るえたのは、納豆汁やクコ飯などの長寿粗食によって、明晰な頭脳を最晩年まで保っていたからに違いない。

 てんかい 1536※~1643年。陸奥国に生まれたとされるが出生には謎が多く、明智光秀が生き延びて天海を名乗ったという説まである。天台密教を学び、武田信玄などに仕えた後、徳川家康の側近となる。風水や陰陽道に基づいた江戸の都市計画などを立案し、黒衣の宰相ともよばれた。

※出生年には諸説ある。

毛利元就(75歳)×餅】
■父の早世を教訓に養生した

 「三本の矢の教え」で知られる毛利元就は、安芸国(広島県西部)の国人領主から、一代で中国地方のほぼ全域を支配下に置いた名将。戦国最高の知将とうたわれた元就が、常に持ち歩き手放さなかったのが餅である。

 「餅は白米飯に比べて腹持ちがよく、米の成分が凝縮されているため、戦国時代を代表する滋養強壮食だった。長い合戦でもスタミナ切れの心配をせずに済む理想的な兵糧でもありました」(永山さん)。

 元就が中国地方統一を図るきっかけとなった厳島の戦いでは、敵方、陶晴賢率いる3万の大軍に対して毛利軍は4000人程度といわれる圧倒的劣勢。だが、平地の少ない厳島に敵をおびき出す戦略や数々の謀略を策し、兵糧に餅を用いて陶軍を打ち破った。

 「情報戦や謀略に長けた元就は、生涯で200回を超える合戦を勝ち抜きました。この持続力も、71歳で9男・秀包をもうけた精力も、スタミナ食である餅のおかげといえるでしょう」(永山さん)。

 10歳のときに、父・弘元を酒の飲み過ぎで亡くし、さらに父の死後には、家臣の裏切りによって城から追放された苦い経験を持つ元就は、人一倍、健康に気を使っていたという。

 そんな元就には、健康を支えてくれる強い援軍がいた。戦国時代きっての名医といわれた、曲直瀬道三である。足利義輝や織田信長も診察した道三と元就には親交があり、道三から長寿の秘訣を指南されていたと思われる。

 道三の長寿法とは、「五味五色」と呼ばれるさまざまな彩りの食材を、旬の時期にバランスよく味つけして食べ、食べ過ぎも空腹になり過ぎることも避けるというもの。元就はこの養生訓通り、贅沢をせず、野菜、瀬戸内海で捕れた新鮮な小魚などバランスの取れた食生活を心がけていた。そのためか、気力、体力が衰えることはなく、敵対する出雲の尼子氏を降伏させ中国地方を掌握したのは、元就が70歳を超えてからであった。

 もうりもとなり 1497~1571年。安芸の国人領主、毛利弘元の次男として生まれる。経験した合戦の数は200以上といわれる。近隣の吉川家、小早川家に次男、3男を養子に入れて毛利両川体制を築き、毛利家の勢力拡大を図るなど政治的策略にも長け、戦国最高の知将といわれた。

この人に聞きました

永山久夫さん
 食文化史研究家。1932年、福島県生まれ。古代から明治までの食事復元研究の第一人者であり、長寿食や健脳食にも造詣が深い。食文化研究所、綜合長寿食研究所所長。西武文理大学客員教授。近著に『武士のメシ』(宝島社)などがある。

(ライター 礒部道生)

[日経おとなのOFF2012年7月号の記事を基に再構成]


本サービスに関する知的財産権その他一切の権利は、日本経済新聞社またはその情報提供者に帰属します。また、本サービスに掲載の記事・写真等の無断複製・転載を禁じます。