適応障害という病気について4回目の原稿を書いている今、実は私はベッドの上にいます。改めてこれまでの自らを省みながら原稿を書きました。
風邪すら引かないくらい頑丈そうに見えた私に対し、これまでの原稿に目を通した人たちは「まさか!」と異口同音に驚きます。
8年前看護師の仕事ができなくなったことが主な原因で、適応障害になりました。主治医の先生からは、「君は見て見ぬふりができない」「適当に手を抜くことができない性格だから」「あまりに頑張りすぎるから……」といつも言われ続けていました。
私は、スケジュール表が空白にならないようにびっしりと仕事を入れています。それはなぜか?お金のためではないと思います。仕事をしていないと自分が自分でないような……。仕事をしていない自分が何をしたらいいのかが、わからないのです。
以前からそんな私の体調のすべてを知っていた方が身近にいて下さいました。その方の経営するデイサービスで高齢者の看護・介護をする日々が始まりました。仕事の充実感もさることながら、本当に毎日が笑顔で満たされ、楽しかった。
入れ歯が落ちそうなくらい大きな口を開けて笑う高齢者の方々。何十年も仕事をしていらしたにもかかわらずその手は小さく、でもずっしりと重い。笑いの絶えない施設でした。よくはしが転んでもおかしいとたとえがありますが、皆さんがそうでした。私は、皆さんの残された時の流れが十分有意義な時間となるように、と努めてまいりました。
その中で、肺の病気を患い、酸素吸入をされている方がいらっしゃいました。彼女は化粧品のお仕事をされ、80歳近くにもなっても入浴後は奇麗に紅をひき、マニキュアをされ、身なりもきちんとされていました。次第に、呼吸が苦しくベッドに横になる日々が多くなりましたが、いつも、彼女の口からは「大丈夫よ……」という言葉が出ました。
よく考えると、私の口癖と同じ「大丈夫」なのです。ご入院される前、私に「野村さん、大丈夫じゃないでしょ? 無理してる。私にはわかるの……」それが彼女から私への最後の言葉でした。
美登利さん、あなたは私の病気のことを見破っていたのですね。でも、美登利さんから、「無理しなくていいのよ!」と言われた時、涙を隠すのが大変でしたよ。今は天国で、「また野村さん無理してる!」ってみていらっしゃるでしょうね。
その後、縁あって保育園の看護師の仕事を任されました。しかし、3カ月目に入り、8年前と同じ適応障害の症状が出始めました。今度は、失声症で声までも出なくなってしまったのです。看護師として認められて仕事をしていたにもかかわらずです。
職場のストレスによる抑うつ症状があったのでしょう。悲しいかな、無表情の私に声をかける職場の人はいませんでした。かけづらかったかもしれません。余計な心配はされたくはありませんでしたが、それでも、正直、優しい言葉がほしかったのです。適応障害の病名の診断書を提出し、その日のうちに退職が決まりました。
今、病床でゆっくりと心を立て直し、着実に以前の自分を取り戻し始めています。そして、おそらくこの原稿が掲載されるころには私は海外での添乗看護師のお仕事をしているでしょう。
海外でも、日本でも、させていただく多くの仕事があるというのは、感謝すべきことだと思っています。
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野村良子(のむら・よしこ) 1960年生まれ。看護師。都内の学校法人に勤務していた2003年、異動を機に適応障害を発症し9カ月入院。地域住民を対象にした「心の相談室」で勤務しながら自らも治療を続ける。09年に退職。デイサービスセンター勤務、保育園勤務を経て、海外添乗看護師。
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「患者は働く」は、病気やその後遺症と折り合いをつけながら働き続ける姿を紹介するコラムです。本人にとっての働く意味やその上での工夫、周囲の配慮などについて、乳がん、クローン病、脳卒中、腎臓移植、適応障害の5人の筆者が毎週リレー形式でつづります。
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