日米外交60年の瞬間 第4部

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吉田ひとりで安保条約に署名 帰ってきた日本(17)
日米外交60年の瞬間 特別編集委員・伊奈久喜

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2012/12/29 7:00
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 1951年9月8日は、吉田茂首席全権にとって忙しい日だった。午前中にサンフランシスコのオペラハウスで条約に署名し、午後5時(日本時間9日午前9時)からサンフランシスコの第6軍司令部プレシディオ(将校集会所<注あり>)で日米安全保障条約に署名した。

■前夜に米側から通告

 いま考えると意外だが、当時、安保署名のニュースは、さして大きな扱いにはなっていない。連合軍による占領を終わらせ、日本の独立を意味する講和条約が前向きのニュースだったのに対し、安保条約は米軍駐留の延長を意味する現状追認の取り決めとみえたからだろうか。

 9日付日経は1面トップの「平和条約調印さる」の関連原稿として「安保条約もきょう調印」の4段見出しの記事がある。わずか2つの文からなる短い記事であり、ニュースソースを「日本全権筋」としている。

 それがだれであるかはわからないが、「8日午後5時にプレシディオで安保条約署名式」と米側から通告されたのは外務省条約局長だった西村熊雄である。西村の回想「サンフランシスコ平和条約 日米安保条約」(中公文庫)によれば、吉田が講和条約受諾演説をした7日夜の会議が終わり、午後11時近くに議場を出ようとすると、GHQ外交局長だったシーボルト大使から呼び止められ、連絡された。

 深夜だったが、吉田が宿泊していたスコット邸に西村は赴き、これを伝えた。講和条約への署名が8日の昼前とされていたから、午後5時はそれから5時間後である。

 西村は「平和条約の署名後数時間で安保調印となったのにたいし代表団の多くが失望感を懐いた」と書いている。なぜ失望感なのかは説明がない。西村にとり、それは自明だったのかもしれないが、現代の読者にはよくわからない。

 代表団の空気を想像すれば、最初に述べたように講和条約は前向きな意味を持ち、安保条約は米軍駐留の延長という、いわば重荷を負う中身だったからだろう。

 しかし吉田の反応は違った。議員団の一員として現地にいた吉田側近の福永健司衆院議員(後に衆院議長)が西村に語ったところによると、吉田はソ連が何らかの策動をする時間を与えぬために講和条約と同じ日に安保条約に署名することに賛成だったという。

■「安保は不人気」と吉田だけが署名

 全権団内部の微妙な空気はプレシディオの署名式会場にはっきりと表れた。米側の署名者がアチソン国務長官、ダレス特使に加え、民主、共和両党の上院議員を加えた4人だったのに対し、日本側は吉田ひとりだった。

安保条約に署名する吉田茂首席全権=朝日新聞社提供
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安保条約に署名する吉田茂首席全権=朝日新聞社提供

 全権のうち、星島二郎(自由党)、池田勇人(蔵相)、一万田尚登(日銀総裁)各全権は会場に来たが、苫米地義三(民主党)はいなかった。徳川宗敬(参院緑風会)は当時の新聞にはその場にいたとあるが、西村は「姿を見せなかった」と書いている。

 西村は安保条約署名全権委任状を作る必要から吉田に署名者がだれになるかを尋ねた。吉田は「星島くん、池田くんに頼めば署名してくれるだろうが、安保条約は不人気だ。政治家がこれに署名するのはためにならん。おれひとり署名する」と語った。

 吉田にとって講和条約と安保条約は不可分一体だった。一方、苫米地ら民主党は講和条約には賛成し、安保には賛成できなかった。後に首相になる中曽根康弘は当時民主党の衆院議員であり、国会での安保条約承認にあたり、欠席した。賛成できないとの意思表示だった。

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