幸村の「真田丸」に新見解 攻めの出城、徳川誘い込む

2014/10/5 6:30
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 今年400年を迎えた「大坂の陣」。勇将真田幸村が大坂城の出城として築き、徳川方と激闘を繰り広げた真田丸に脚光が当たっている。2016年のNHK大河ドラマが「真田丸」に決定。復元模型の計画も進む。遺構が残っておらず謎が多いが、新しい研究や考察を踏まえ実像を探った。

 「幸村が軍師として知略を巡らし、周到に準備した最高の出城」。そう指摘するのは奈良大学(奈良市)の千田嘉博学長だ。

 城郭考古学の専門家である千田学長はこのほど広島藩主だった浅野家に伝わる「浅野文庫諸国古城之図」をもとに新たな考察をまとめた。江戸初期、廃城だった各地の城を現地調査した図面集で、真田丸も位置などを具体的に記す。

 千田学長が提示するのが、本丸と小さな曲輪(くるわ)の二重構造だった、との新説だ。真田丸は大坂城の南に築かれたが、間に深い惣構(そうがまえ、堀)があった。真田丸の本丸の北に設けられた曲輪は背後をとって惣構から進入しようとする徳川方を防ぐ狙いがあった、とみる。

 1614年11月、戦いの火蓋が切られた大坂冬の陣。豊臣方10万に対し、徳川方の軍勢は20万に及ぶ。豊臣方は南以外の三方を川や堀に囲まれ、攻めにくい大坂城への籠城作戦で臨み、南側を固めた。その先兵が真田丸。東西は180メートルとも伝わるが、もっと大きかったとの説もある。

 位置は現在の真田山公園近辺とされるが、「中心はやや西の大阪明星学園の周辺だった」(大阪城天守閣の跡部信主任学芸員)。鉄砲隊を率いた幸村が指揮し、12月4日には前田利常らの軍勢をおびき寄せ、大損害を与えた。

 「大坂城の弱点の防衛拠点」(同)と考えられているが、千田学長は「むしろ攻撃のための出城だった」と新たな見方を打ち出す。「真田丸の北には深い惣構があるため大坂城内からの援軍が難しい。背水の陣といえる場所」。逆に言えば、「徳川からみれば攻めたくなる。大坂城に籠もるだけでは勝てないと考えた幸村が練った誘導、接近戦のための陣地だった」。

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 千田学長は戦いの様子を伝える「大坂冬の陣図屏風」に描かれた真田丸に着目。「塀が2段構造で上からも下からも鉄砲が撃てるなど、実によく考えられている」と分析する。幸村は開戦前、東から進軍してくる徳川家康らを近江で迎え撃つ「積極策」を唱えており、攻めの姿勢を貫いたとも考えられる。

 幸村の父、真田昌幸は自ら築いた上田城(長野県上田市)で2度徳川軍を撃退した。「幸村は少数で徳川の大軍を破った上田合戦を参考にしたはず」(千田学長)。徳川方を翻弄した真田丸は冬の陣後、和睦の条件として取り壊された。

 地元の大阪市天王寺区は10月末まで寄付金を募り、真田丸を再現した模型を作って来年5月に展示する計画。周辺では来年11月まで「天王寺真田幸村博」として様々な催しが開かれる。これを機に、大坂夏の陣で討ち死にした勇将の生きざまを振り返るのも楽しい。

(大阪・文化担当 多田明)

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